お知らせ
来週の前半少し忙しく、記事の更新ができるかわからないため、月曜と水曜の記事の更新をお休みします。
さて、本日は慰安婦問題であまり語られる事の無い、しかし非常に重要な件について書いていきます。
初めて来られた方はまずこちらを先に読む事をお勧めします。
ブロマガ『日韓問題(初心者向け)』を始めた理由
https://oogchib.hateblo.jp/entry/ar892003
注意
・このブログは「日韓の価値観の違い」を初心者向けに扱っています
・当ブログのスタンスは「価値観に善悪や優劣は存在しない」というものです
・相手が不法を働いているからと、こちらが不法をして良い理由にはなりません
・自身の常識が相手にとっても常識とは限りません、「他者がそれを見たらど
う思うか」という客観性を常に持ちましょう
・日常生活で注意する程度には言動に注意を心がけてください
慰安婦問題について、最近話題となったものとして元正義記憶連帯代表による寄付金の横領などがあるが、この件を扱うメディアの多くが触れない、非常に重要な問題がいくつか存在している。
この件を日本のメディアで唯一集中的に扱った文春の記事によると、元正義記憶連帯代表の尹美香議員は、元々あった慰安婦支援団体から主導権を乗っ取ったうえに、90年代に韓国政府と協力し「慰安婦証言の検証」を妨害したという経緯がある。
そのため、いわゆる「慰安婦の証言」は未だ一切検証されておらず、矛盾したものが多数あり、今後すべきことは証言の客観的な検証で、これがない限りどんな話であれ一歩も進めてはいけない。
※本文中のリンクは引用の元記事、或いはインターネットアーカイブやウェブ魚拓(別サイト)へのリンクです。
1:正義記憶連帯元代表の問題
まずはこちらの記事から
焼き肉やマッサージに 元慰安婦支援団体の寄付金 私的に流用
朝日新聞 2021年10月5日
https://digital.asahi.com/articles/ASPB55GFJPB5UHBI00X.html
韓国の元
慰安婦支援団体「正義記憶連帯」(旧挺対協)による寄付金流用事件をめぐり、業務上横領などの罪で公判中の前理事長で国会議員の尹美香被告が、寄付金などを私的な飲食や買い物、
交通違反の罰金、税金の納付に流用した疑いがあることが分かった。
韓国主要紙の朝鮮日報が5日付朝刊で、入手した検察の起訴状と添付資料をもとに報道した。朝日新聞も同じ資料を入手した。
起訴状によると、ソウル西部地検は、尹氏が2011年1月から20年3月にかけて217回にわたり計1億ウォン(約936万円)を横領し、私的に流用したと主張。添付資料によると、私的流用はレストランや菓子店、高速道路のサービスエリア、スーパー、生活用品店での支出が目立つ。13年6月にテレビショッピング(5万2千ウォン)、15年3月に焼き肉店(26万ウォン)、同年8月に蔘鶏湯(サムゲタン)専門店(5万2千ウォン)で支払いに充てたという。朝鮮日報によると、マッサージ店での支払いもあったという。
ほかにも検察は、16年4月に速度違反の罰金8万ウォンや通行違反の罰金6万ウォン、18年5月には所得税25万ウォンの納付にそれぞれ流用したと主張した。18年3月には寄付金を管理する団体関連の口座から尹氏の娘の口座に182万ウォンが送金されていた。
尹被告は寄付金流用のほか、政府や自治体の補助金数億ウォンを不正受給したとして計八つの罪で昨年9月に起訴された。流用した金の使途は明らかになっていなかった。
尹被告は5日、フェイスブックで「公的業務や福利厚生費用として会計処理したもので、検察の公訴は事実ではない。裁判を通じて誠実に証明していく」と反論した。(ソウル=鈴木拓也)
朝日新聞の10月5日の記事ですが、慰安婦支援団体「正義記憶連帯」(旧挺対協)による寄付金流用事件に関する新情報を伝えている記事です。
起訴されている元正義記憶連帯代表の尹美香被告は、日用品や飲食、交通違反の罰金、所得税の納付などに寄付金を流用し起訴されたと書かれています。
またこちらの記事によると
【社説】「公金を私的使用」尹美香氏、議員辞退して裁判受けるべき=韓国
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.10.06 09:46
https://japanese.joins.com/JArticle/283595
日本軍性
奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連・旧韓国挺身隊問題対策協議会)不正会計疑惑の中心にいる尹美香(ユン・ミヒャン)無所属議員の控訴状が昨日、公開された。昨年9月に起訴されたが初公判(今年8月11日)まで公訴事実の公開を禁止する現法務部の指針のため一歩遅れて明らかになった。これまで横領規模が1億ウォン(約940万円)に達すると言われてきたが、今回具体的な内容まで出てきた。
控訴状によると尹議員は2011年1月から昨年3月まで217回にわたって1億37万ウォンを横領した。少ないときには1500ウォン、多いときには850万ウォンをチェックカード(デビットカードに類似のもの)で切ったり、個人口座に振り込む手口を使った。この中には「おばあさんの贈り物」等の支出もあるが「○○カルビ」「○○豚」などの飲食店・サービスエリア・食料品店・免税店などで使ったものも少なくなかった。足マッサージ店と見える「Dフットショップ」(9万ウォン)や交通過怠金・罰金、「尹美香代表総合所得税納付」(25万ウォン)のように首をかしげるような用途もある。
ソル(旧正月)を3日後に控えた2014年1月、「ギフト・韓菓」と書いて尹議員の夫の名義の口座に92万余ウォンが入金されているほか、2016年7月には「尹医療費」名目で200万ウォンが尹議員の口座に振り込まれていた。2018年3月、被害女性の憩い場所長のソン氏名義の口座に入っていた募金額182万ウォンが特別な用途の表記なく尹議員の娘の口座に送金されていたこともある。ソンさんは尹議員に対する検察捜査が本格化した昨年6月、自殺した。
尹議員が挺対協公金を事実上「こづかい」のように使ったのではないかという強い疑問を感じざるを得ない内訳だ。進歩陣営からも「厳しい環境で公益のために献身する数多くの市民社会活動家に対する侮辱だ。慰安婦の正義の実現と被害おばあさんの支援に使われると考えて後援金を送った市民に対する背任であり犯罪行為」(カン・ミンジン正義党青年正義党代表)という叱責が出てくるのは当然のことだ。市民運動の土台は道徳性・公益性・純粋性ではないのか。
尹議員自身は不法ではないという態度を守っている。裁判でも「過去30年間、活動家で恥なく生きてきた」と主張した。正義連側も「尹美香の個人のお金を先に書いて後で補填した」と説明した。
今後、裁判で是是非非が問われるだろう。そうだとしても、尹議員が国会議員の身分を維持したまま法廷に立つのは正しくない。父親の農地法・住民登録法違反疑惑にも尹喜淑(ユン・ヒスク)元国民の力議員は「国会議員は法的・社会的盾を下ろして平凡な市民として捜査を受ける」とし議員職から退いた。郭尚道(クァク・サンド)議員も息子の50億ウォン退職・賞与金問題で議員職を辞退することにした。政治家の道徳性に対する国民的期待がここまで高まった。尹美香議員の容疑が彼らよりも重いのは確かで、軽くはない。直ちに議員職を辞退するべきだ。
尹美香により2011年から2020年にかけて、合計1000万円以上が217回に分けて支援金を横領した痕跡がある事や、それ以外にも医療費名目で20万円近くが尹議員の口座に振り込まれていたり、夫名義の口座に9万円近くが、また娘の口座に18万円近くが振り込まれていたりと、寄付金が私的に流用されてきていた事がわかります。
これに対し裁判で尹議員は「過去30年間、活動家で恥なく生きてきた」と無罪を主張、正義連側も「尹美香の個人のお金を先に書いて後で補填した」と主張しており、個人的に使用したお金は後で補填していると主張しています。
そしてこの件、こうした記事を見ると単なる元代表による寄付金の横領事件のように見えますが、実態は大きく異なるのです。
2:問題はもっと大規模で組織的
ここで重要となるのが、文春がこの件で慰安婦問題初期から「慰安婦の支援」に携わってきた人物の取材を行っており、そこに正義記憶連帯の前身となる挺対協と尹美香元代表の実態が書かれている事です。
次の特集記事では、90年代から慰安婦問題に関わってきたフリー記者の臼杵敬子氏による「慰安婦問題が今のようになるまでの経緯」が書かれています。
「お金をあげるから事務所に来なさい」慰安婦支援団体がいかに日本政府の調査を妨害したか
文春オンライン 2020/06/15
https://bunshun.jp/articles/-/38366
「挺対協」“嫌韓”を作った組織の30年 #3
挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。
はたして挺対協とはいかなる組織なのか。彼女らの実態をよく知る日本人がいる。
その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏は、半生を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。
本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。
挺対協は被害者や遺族を差別してきた
挺対協が被害者や遺族を差別してきた、という場面を私も何度も見てきました。
私と韓国太平洋戦争犠牲者遺族会が国会で座り込みのデモを行っていたときのことです。弁護士で活動家の戸塚悦朗氏と挺対協代表の尹美香(ユン・ミヒャン)氏が突然、視察に来ました。差し入れをするのでも、激励するのでもないのです。
尹美香氏は「こんなことやって効果あるんですか?」とでも言いたげに、馬鹿にしたかのような笑みを浮かべていました。彼女の笑みに蔑んだものを感じたことを覚えています。
話は少し過去に遡ります。韓国太平洋戦争犠牲者遺族会と私は運命的な巡りあわせで出会いました。
1990年6月、韓国太平洋戦争犠牲者遺族会のメンバーが、問題を訴えるために釜山からソウルまでを徒歩で500キロの大行進を行いました。当時、ライターをしていた私は取材で駆け付けました。
遺族の人々はこう叫んでいた。
「お父さん! 生きてるんですかー? 死んでいるんですかー? 」
当時、私は日韓基本条約で問題は全て解決しているはずだと思っていました。しかし、戦後40年以上が経過しても、まだ生死すら確認できていない韓国人兵士や徴用者が多数いることを始めて知った。基本的な問題である生存確認すら出来ていないのかと驚きました。これで「全て解決した」といえるのかと疑問を持ちました。
「英語も話せないくせに、何で来た」
遺族会共同代表(当時)の梁順任(ヤン・スニム)氏と出会ったことで、私は遺族会が起こした東京裁判を支援することになりました。私は弁護士選定から原告の聴取までをバックアップして手伝い、遺族会の様々な相談にも乗りました。
そうこうしているなかで、1993年春、ジュネーブの国連人権会議で慰安婦問題を訴えるという話が出たのです。
国連で問題を訴えるという手法は、挺対協に近い戸塚悦朗氏の発案だったようです。戸塚氏は92年にも国連人権委員会で慰安婦問題などを提起したことがあった。ジュネーブへは韓国政府の支援のもと、梁氏や挺対協のメンバーが行くことになっていました。私も「一緒にきてほしい」と梁氏に誘われましたが、日本国内で活動することに意味を見出していたので乗り気になれず、同行を断りました。
ジュネーブでは慰安婦問題や遺族の問題が提起される予定でしたが、挺対協は梁氏を「英語も話せないくせに、何で来た」と蔑んでいたそうです。梁氏は、現地で開かれた食事会にも呼ばれず孤独な思いをしたと、後に聞きました。
https://bunshun.jp/articles/-/38366?page=2
日韓歴史問題を“乗っ取ろう”とした尹美香夫婦
驚いたのはジュネーブに尹美香と金三錫(キム・サンソク)夫婦がいたと聞いたことです。夫婦はホテルで一緒の部屋に宿泊していたというのです。
尹美香は挺対協の事務局長なのでわかります。夫がなぜいたのか聞くと、当時、彼は韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の事務局長職に潜り込んでいたというのです。
彼らは夫婦で日韓歴史問題を“乗っ取ろう”としていたのではないか、と私は思っています。
尹美香氏は後に挺対協の代表となり慰安婦問題を利権化していったことは周知の通りです。一方で金三錫氏は事務局長職を得たものの、1万6千人もの会員がいて、かつ口うるさい老人老婆が多い遺族会を束ねきれず、三か月あまりで退任し逃げだすことになります。
金三錫氏は民族解放派とか、セクトだとかいう噂が付きまとう人物で、遺族会事務局長を辞めた後の1993年、北朝鮮の工作資金を受け取ったとして、妹とともに軍事機密漏洩などの罪で起訴、服役しています。この兄妹スパイ疑惑は再審請求により、国家保安法違反は認定されましたが、その他は無罪となりました。とにかく尹美香氏夫婦の背景には後ろ暗い物がいつも見え隠れしていました。
日本政府による元慰安婦への聞き取り調査を拒否
私は運動家ではありません。それでも銀座デモや国会座り込みを敢行したのは、まだ解決していない問題が残っていることを日本人にも訴えたかったからです。元慰安婦や軍人軍属遺族たちの悲しみや苦痛を解決できるのは、日本政府しかないのです。
元慰安婦のハルモニ(おばあさん)も「言いたいこと言って、胸がスッキリした」とか「デモって楽しいね」と言ってくれた。一方で、活動資金には苦労しました。
資金を作るためにキムチを売ろうとなりました。私の自宅の風呂場を使って、元慰安婦のハルモニ指導のもとキムチを作り、国会前で販売したこともあります。私は遺族会の人たちや元慰安婦のハルモニと交流を深めていくうちに、彼らの希望――“戦後処理”を正しく行うべきだという考えを一層強くしていきました。
1993年7月、日本政府も慰安婦問題への取組を本格化させるようになりました。 在韓日本国大使館・参事官だった武藤正敏氏は、まず挺対協と交渉を始めました。挺対協は「日本政府は調査をしろ」等と訴えていたので、日本政府として元慰安婦の聞き取り調査を行いたいと打診したのです。
しかし「日本は信用できない」と言って挺対協は調査を拒否した。このとき、なぜ拒否をしたのか私には未だに理解ができません。
https://bunshun.jp/articles/-/38366?page=3
「お金をあげるから事務所に来なさい」挺対協の妨害
武藤氏はその後、遺族会に話を持ち掛けました。梁氏から相談された私は「当然、やるべきだ」と即答しました。
調査は龍山(ヨンサン)にある遺族会の事務所で行われました。私も急遽、ソウル入りして遺族会の手伝いをすることになりました。
龍山は軍の街で、当時は戦争の名残を色濃く残した街でした。駅前には軍人用の集合広場があり、事務所裏には赤線地帯が広がっていました。
7月26日から30日までの5日間で調査は行われました。金学順さんや金田きみ子さんを始めとする16名の元慰安婦が参加しました。
挺対協は「日本政府の真相調査を受けるな!」とピケを張り、反対デモを行っていました。調査が終盤に入ったある日、ハルモニから挺対協が更に悪質な妨害工作を行っていることを聞きました。
「ハルモニたちに挺対協から『お金をあげるから事務所に来なさい』と連絡があり集められた。『250万ウォンあげるから、日本政府の調査に協力しないと誓約書を書け』という話だった。でも、私は話を聞いて欲しいからここに来た」
現在、李容洙氏の告発をきっかけに挺対協が元慰安婦を利用し金儲けをしていたという疑惑が浮上しています。疑惑への反論の一環で、挺対協が李容洙氏へお金を払っていると主張したことがありました。公開された古びた領収書のうちの一枚が93年のものでした。李容洙氏は調査に参加していません。まさに、当時口封じのために挺対協が配ったカネの領収書だと私はピンと来ました。
被害実態の調査なくして、補償の話は成立しない
この調査を受けて、93年 8月、河野官房長官が「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」、いわゆる河野談話を発表しました。
梁氏はこの調査に意義を感じ、日本政府側に「今後も調査を継続して行うよう」とお願いして、私も立ち会って日本政府側に調査継続の誓約書を書いて貰うことにしました。しかし、直後に日本で政権交代が起き、話は宙に浮いてしまう。残念なことにこの調査は、最初で最後の日本政府による慰安婦調査となってしまったのです――。
私は基本的に被害実態の調査なくして、補償の話は成立しないと考えています。
例えば交通事故はどうでしょう。被害を受けた本人の申告だけでは、保険から賠償はされませんよね。審査が入り被害実態が確認された上で、賠償額が決められます。戦後補償問題も実態調査をしたうえで補償することが望ましい。
挺対協は「加害者が被害者を調査するとは何事か」と主張します。でも、その問題がウソか本当かも分からないのに、どう償えばいいというのでしょうか? 慰安婦問題の捻じれてしまった大きな要因は、挺対協が日本の実態調査を妨害し続けたことにあると私は考えています。
こちらの記事によると、挺対協は慰安婦や挺対協より以前からあった慰安婦支援団体(韓国太平洋戦争犠牲者遺族会)をかなり見下していたようで、臼杵氏によると挺対協は日韓の歴史問題で主導権を握り活動自体を乗っ取ろうとしていたようです。
そしてまんまと慰安婦問題で主導権を握り、後に駐韓日本大使となる武藤正敏氏と交渉するようになったそうですが、挺対協が「日本政府は調査をしろ」等と訴えていたので、日本政府として元慰安婦の聞き取り調査を行いたいと打診したところ、「日本は信用できない」といって証言の検証を拒否したそうです。
そこで、挺対協よりも前から慰安婦支援をおこなっていた韓国太平洋戦争犠牲者遺族会(上村隆氏の義理の母が代表を務めていた団体)に話を持って行ったところ、挺対協が「日本政府の真相調査を受けるな!」と訴え妨害活動を行っていたようなのです。
そして慰安婦達に対し「(挺対協から)お金をあげるから事務所に来なさい」という連絡があり、「250万ウォンあげるから、日本政府の調査に協力しないと誓約書を書け」と言われたという話を後に慰安婦から聞いたと書かれています。
そしてこのことから解るのは、挺対協以前から慰安婦支援を行っていた韓国太平洋戦争犠牲者遺族会は証言の検証に前向きであり、挺対協が「お金で釣る」という事をしていなければ、日本政府による証言の検証は行われていたという事です。
またもう一つ重要なこととして、慰安婦証言は矛盾だらけで検証が必要であることは以前から指摘されていたわけですが、それに対して日本側支援者は何と言っていたかです。
彼らは「慰安婦だったのは事実なのだから検証よりも名誉回復が先」「高齢なのだから証言に矛盾があるのは仕方がない」といって、頑なに検証を否定していたのです。
つまり、日本側で慰安婦を支援していた人々は、「事実上挺対協の方針を支持していた」事になります。
また次の記事によると
「当事者は“良し”としていないのに『性奴隷』と……」慰安婦支援30年の日本人が見た挺対協の仕打ち
文春オンライン 2020/06/15
https://bunshun.jp/articles/-/38367
「挺対協」“
嫌韓”を作った組織の30年 #4
挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。
はたして挺対協とはいかなる組織なのか。彼女らの実態をよく知る日本人がいる。
その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏は、半生を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。
本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。
挺対協の「性奴隷」という表現が招いたこと
1994年、自社さきがけ政権のもと1995年に戦後50年を迎えるにあたって『戦後50年問題プロジェクト』が発足しました。様々な問題を解決しようという取組がなされるなかの一つに、慰安婦問題が入ることになったのです。
私は東京裁判を支援しながら、政治の動きにも注目をしていました。戦後50年問題プロジェクトのもと設置された「従軍慰安婦問題等小委員会」で証言をしたこともありました。
日本政府としてのスタンスは、日韓基本条約で解決した問題であり、人道的には認めるが法律的には認められないというものでした。ある自民党幹部は「慰安婦に対しては1円たりとも払わない」という密約書まで書いていました。私はこの密約を聞き解決の困難さを痛感しました。
挺対協が喧伝していた「慰安婦は性奴隷だった」という表現も日本側を頑にした一因だったと思います。この表現は元慰安婦に本当に失礼であり、人権に対して鈍感なものだと私も思っています。
元慰安婦たちは苦しい環境の中でも精一杯の抵抗をしていたし、自我を持って生活していました。例えば元慰安婦の金田きみ子さんは日本兵と恋人関係になりました。休日には2人でデートし、写真館で貸衣装を着て記念撮影(写真参照)をしたと聞きました。私の知る限りでは、ハルモニで「性奴隷」という表現を“良し”とする人はいませんでした。
挺対協の女性幹部の呆れた主張
このころから挺対協は慰安婦問題に大きな影響力を持つようになっていました。私は一度、挺対協の金シンシルという慰安婦担当の女性幹部と問題の解決について話し合ったことがあります。
場所は金浦空港の喫茶店でした。
私は「慰安婦問題をどう解決すればいいと思いますか」と問いました。
金氏はこう答えました。
「日本政府がまとまったお金を韓国政府に渡す。韓国政府はそのお金を挺対協に預け、私たちが配分するのがいい。そう思っています」
私は呆れました。なぜ被害者でもない挺対協がお金を受け取るのか。彼女の主張することの意味がまったくわかりませんでした。
https://bunshun.jp/articles/-/38367?page=2
慰安婦の実態を判断することの難しさ
1995年7月に「女性のためのアジア平和国民基金(以下・アジア女性基金)」が発足します。基金には私たちの「日本の戦後責任をハッキリさせる会(通称・ハッキリ会)」からもスタッフを一人派遣しました。
スタッフを派遣することには少なくない葛藤がありました。日本の識者や左翼運動家たちは軒並み、国民募金で償うという方法や、半官半民で問題に取組むアジア女性基金の方式は「国の責任を曖昧にする」と大反対していたのです。
でも問題解決には政治力が必須ですし、オール・オア・ナッシングの考え方では物事は進みません。私たちはアジア女性基金に協力することで、少しでも解決の道筋をつけたいと考え参画を決意しました。
また、慰安婦問題を法的に解決するということへの限界を感じていたことも事実です。
私は50人あまりの元慰安婦の話を聞いて行くなかで、だんだん考えが変わっていきました。慰安婦の実態は資料で裏付けられるものが少なく、ほとんどが証言のみで判断しなければなりません。聞いて行くと、それぞれの経験には濃淡があることが判ってきます。根拠がある話をする人もいれば、ちょっと違うんじゃないかと感じる人もいる。
慰安婦の真贋については、ハルモニたちのほうがより敏感でした。
「私は慰安所に8年もいて子供が産めない身体になった。それに比べると、あの女の証言は怪しい」
という言葉を聞くことも少なくありませんでした。
元慰安婦だった期間も、3か月と短い人もいれば7~8年と長い人もいるなど、人によってまちまちです。
韓国政府の慰安婦認定はブラックボックス
1992年から韓国政府は全国の自治体を窓口として慰安婦申告を募りました。プライバシーを守り、漏らした者には厳しい懲役刑を科すという条件下で申告作業を進めたのです。
このとき関係者から聞いた話によると、元慰安婦として実際に手を上げた人の数がかなり少なかったことに、挺対協を始めとする関係者はショックを受けたというのです。識者の間では慰安婦は20万人規模でいたとも語られていましたから、その差に驚いたのです。その後、韓国内では「もう、全員慰安婦として認めよう」という雰囲気になったと聞きました。
韓国政府が認定する慰安婦は、2015年には238名でした。現在、その数は増えて247名(挺対協がソウル市南山公園に建立した慰安婦の碑に刻まれた人数が247)いるとされています。
私が元慰安婦の方々に聞いたところによると、彼女らが知っている慰安婦はせいぜい5、60人しかいない。それ以外は匿名性のベールの中に包まれ実態が見えないというのです。韓国政府がどのような過程を経て、彼女らを慰安婦として認定したのかが未だブラックボックスとなっているのです。
日本軍が慰安所を使っていたのは事実ですが、女性達をどう連れてきたのかを証明することは難しい。前述したように人数などの根本的な基礎データにも不安がある。
日韓の政治状況、慰安婦調査が明らかにされていない実態、様々な状況を考え、法的な解決ではなく人道的な解決が望ましいのではないかと私は考えるようになりました。
https://bunshun.jp/articles/-/38367?page=3
計500万円が元慰安婦に支給されることに
私たちが支援活動を行っているなかで元日本兵の方からも様々なメッセージをもらいました。
「自分の部隊にも慰安所があった。戦況が悪くなり撤退をすることになったとき、慰安婦の方から『私たちを連れて行ってくれ』と懇願された。しかし、最終的に彼女らを捨てて逃げなければならない状況になってしまった。その後、彼女たちがどうなったか。今でも思い出すし、罪悪感にかられている」
その男性は同時代を生きた慰安婦のことを、とても気にしていました。
慰安所に並んだのは日本兵です。慰安婦たちの背景を知らずに、彼女たちを抱いたり、殴ったりしたのは、いま生きる私たちの祖父であり、親であり兄弟だったかもしれません。その意味でアジア女性基金が始めた国民募金は日本人が反省する原点ともなりうるし、人道的な解決にも繋がると私は考えました。
国民募金には6億円以上のお金が集まりました。自民党の橋本龍太郎氏(後の首相)は家族ぐるみで募金に協力してくれたといいます。他には自衛官の方も多かったと聞きます。
アジア女性基金では国民募金を原資とする「償い金」を200万円、そして国費から「医療福祉支援事業」として300万円、計500万円が元慰安婦に支給されることになりました。
「慰安婦を懐柔しようとしている」アジア女性基金への嫌がらせ
アジア女性基金が本格的に活動を始めた1996年ごろから、挺対協は私に対する嫌がらせを強めてきました。
同年、自治労から500万円の寄付を貰い、龍山に遺族会ケアセンターがオープンしました。同所は#2でもお話しした元慰安婦や遺族の方が集える場所で、金学順さんも愛した場所です。金学順さんは肺気腫で体調が良くないなか、タクシーを飛ばしてよく遊びにきていたそうです。
ところが尹貞玉氏はこのケアセンターを目の敵にしたのです。
「ケアセンターはアジア女性基金のカネで出来ている。慰安婦を懐柔するために作られたものだ」等と韓国政府に注進するようになったのです。そして「臼杵が慰安婦にアジア女性基金のカネを受け取るよう説得して回っている」というウソも流すようになりました。
遺族会ケアセンターは自治労の支援で出来たものですし、アジア女性基金のお金を受け取るかどうかを決めるのは元慰安婦の方々だと私は考えています。説得などするはずがないのです。
なぜ挺対協はこんなウソをつくのかと悔しい気持ちになりました。
嫌がらせが最高潮に達したのが、1997年1月以降のことです。アジア女性基金は、ソウルのプラザホテルで、極秘裏に金田きみ子さんを含む元慰安婦に、橋本龍太郎総理のお詫びの手紙と、支払金の目録を届けました。
https://bunshun.jp/articles/-/38367?page=4
償い金を受け取った元慰安婦の住所を公開した挺対協
問題はその後でした。金田さんの自宅にマスコミが殺到しました。記者は口々に「なんで日本の金を受け取ったんだ」と彼女を糾弾した。金田さんが心配になり、彼女の自宅にいた私は、記者に向かって「首相の手紙を写せ!」と言い返しました。それが報道されたかはわかりません。
記者が殺到したのは、挺対協が償い金を受け取った元慰安婦の名前と住所を公開していたからでした。金田さんは韓国名を非公開としていましたが、挺対協は実名も明かした。酷い話です。
「日本から金を貰ったら娼婦だと認めたことになる」
挺対協はこう批判を繰り返しました。罵倒するだけではなく、脅迫電話をかける、「母の日」等の元慰安婦が参加する公式行事の招待メンバーから外す、名簿から名前を外す等――。彼女らは、最初にアジア女性基金から償い金を受け取った7人の元慰安婦を苛め抜いたのです。
元慰安婦に償い金の返還を迫る〈覚書〉
それだけではありません。アジア女性基金を潰すための工作も同時に始めていました。
ここに〈覚書〉と書かれた一枚の書類があります。
これは挺対協が元慰安婦にアジア女性基金からの償い金を返金するよう書かせたものです。内容は次のようなものです。
〈上記本人は大韓民国政府が日帝下日本軍慰安婦被害者の生活安定のため支給する支援金・3500万ウォンを受領するため、アジア女性基金からすでに受領した一時金(3600万ウォン)を、挺対協を通じて日本側に返還することに同意します〉
韓国政府は挺対協と連携して、アジア女性基金に対抗するために、償い金と同等額を慰安婦に払うことを決めました。この書類は、韓国政府が金を払うから償い金を受け取るなと、〈覚書〉として挺対協が元慰安婦に書かせたものです。日本政府の調査を妨害したときと同じように、再び札束で顔を引っぱたくような懐柔を挺対協は行ったのです。
挺対協が妨害活動を続けたのは、全ては慰安婦問題を解決させないため、であると今は確信を持って言うことが出来ます。
しかし後に、ハルモニたちのほうが一枚上手だったことが明らかになります――。
挺対協は慰安婦問題の解決法について「日本政府がまとまったお金を韓国政府に渡す。韓国政府はそのお金を挺対協に預け、私たちが配分するのがいい。そう思っています」と発言していたという事が書かれています。
今回の一連の正義記憶連帯による疑惑においても、元慰安婦とされる人物に支払われたお金が引き出され正義記憶連帯や挺対協の口座に振り込まれていたり、挺対協として融資を受けて元慰安婦保養施設という名目で建造された建物が、レジャー用施設として流用されていたり、今回最初に引用した事例のように元代表が私的に横領していたという事例があります。
こうした背景を見る限り、元々挺対協は慰安婦問題を利用して詐欺ビジネスを行うための組織であった可能性まであるわけです。
更に記事では、慰安婦同士の間でも「証言への疑問」を持つ人々がいたうえに、韓国政府の慰安婦認定が非公開のブラックボックス化しており、当時から挺対協と韓国政府が一蓮托生であった事を示唆しています。
また最後の方では、90年代に日本政府が設立した「アジア女性基金」に関しても、挺対協が主導的役割をして妨害していた事が書かれており、更にはそれにこじつけて「問題解決」を目指す臼杵氏らの活動までも挺対協が妨害してきた事が書かれています。
ここで少し補足しておきますが、臼杵氏らのスタンスも実は完全に真っ当というわけではなく、そもそも彼女らは「慰安婦=被害者」という前提で話を進めていますが、自動的にそうなるのは現在の韓国政府による慰安婦の定義である
慰安婦問題で日本記者に反論 韓国「強制性の証拠は無数」
聯合ニュース 2014.09.02
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20140902002800882
【ソウル
聯合ニュース】
朝日新聞が
慰安婦報道の一部を取り消したことを受け、日本の右翼勢力などが旧日本軍の強制性を否定する動きを強めるなか、韓国外交部の2日の定例会見で一部日本メディアが強制動員の証拠を求めた。日本メディアの質問に対し、魯光鎰(ノ・グァンイル)報道官は韓国政府の立場を強く主張し、論争が起きた。
読売新聞の記者は「朝日新聞が済州島で女性を慰安婦として強制連行したという吉田清治氏の証言を虚偽と認め、記事を取り消した」として、「慰安婦が強制連行されたという説を裏付ける主な根拠がなくなったわけだが、韓国政府は日本軍が組織的に強制連行したと主張するのか」と質問。これに対し、魯報道官は「軍の強制性を立証しているものは無数にある」と強調し、「最も明白なのは被害者の肉声による証言」と述べた。
また、毎日新聞の記者が「読売の記者は強制連行、狩りのように連れ去られたこと(があったかどうか)について質問したもの」として、再び韓国政府の見解を聞いた。魯報道官は「強制性という言葉の意味は皆さんが常識的に知っているもの」と答えた。その上で、「そういう明白な証言を聞いたのに、なぜ顔をそむけようとするのか。証言もあり、証拠もあり、世界中が知っている。万人が知っていることは証明する必要がない」と反論した。
「証拠」を求める質問が再度出ると、「最近、中国で戦犯の供述書を公開している。その内容にも詳細に記録されている」と話した。
一方、韓国旅客船セウォル号沈没事故当日の朴槿恵(パク・クネ)大統領の動静に関する疑惑を報じ、朴大統領の名誉を毀損(きそん)したとして市民団体から告発された産経新聞の加藤達也ソウル支局長を検察当局が事情聴取したことについては、「司法当局が捜査を進めているので、結果を見守る必要がある」と述べた。
国連総会に合わせた尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部長官と李洙ヨン(リ・スヨン)北朝鮮外相の会談を検討しているとの報道に関しては、「事実無根」とした。
「軍や国の命令で、軍人や官憲が直接的に行った拉致」が成り立つ場合のみです。
これが成り立たない以上、そもそも問題があったかどうかは証言の客観的検証を行わなければ成立し得ないにも関わらず、臼杵氏は「慰安婦=被害者」としている事が問題なのです。
この人物も「日韓の慰安婦の定義」をあいまいにしておきたいように見えます。
また、この正義記憶連帯に関する疑惑に関しては次の記事にもあるように
韓国政府元高官「正義連は利益追求団体…文政権、正義連を被害者と勘違い」
朝鮮日報 2020/05/26
https://web.archive.org/web/20200527030609/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/26/2020052680085.html
「文政権の被害者中心主義は『正義連中心主義』」
千英宇(チョン・ヨンウ)元青瓦台外交安保首席秘書官(現:韓半島未来フォーラム理事長)が24日、慰安婦被害者支援市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)元理事長の尹美香(ユン・ミヒャン)氏(共に民主党当選人)の寄付金流用疑惑に関連して、「(正義連は)自分の利益を追求する団体だ」と語った。
また、文在寅(ムン・ジェイン)政権に対しては、「慰安婦ではなく正義連を被害者と勘違いした」と言った。千英宇氏は李明博(イ・ミョンバク)政権時の青瓦台外交安保首席秘書官で、慰安婦被害者問題解決のための対日交渉を担当した。
千英宇氏は同日、読売新聞のインタビューで、自身が外交安保首席秘書官だった時(2010年10月-13年2月)に正義連の前身である「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)と接触したことを明らかにし、「(正義連は)慰安婦のためというより自分の利益を追求する団体だ」と語った。
千英宇氏は、2011年12月に京都で行われた韓日首脳会談で李明博元大統領が野田佳彦首相に慰安婦問題の解決を迫った翌年の春、斎藤勁官房副長官が解決に向けた腹案を持ってソウルの同氏の事務所を訪れた、と言った。この腹案は、駐韓日本大使が慰安婦に1人ずつ会って日本の首相の謝罪親書と日本の国家予算による補償金を直接手渡すことが骨子だった。千英宇氏はこれに先立ち、中心的な役割をしていた慰安婦被害者5-6人を青瓦台に呼んで意向を聞いていたという。
https://web.archive.org/web/20200531062559/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/26/2020052680085_2.html
千英宇氏は「慰安婦被害者たちは、生きているうちに日本政府の謝罪と補償金を受け取りたがっている印象を受けた」と話した。当時挺対協が強硬に要求していた「日本政府の法的責任の認定」については「おばあさんたちは難解でよく分かっていなかった」とも語った。
千英宇氏は斎藤氏と会談した後、当時挺対協代表だった尹美香氏と会ってこの案を説明した。読売新聞はこれについて、「挺対協が『法の上に君臨していると言っても過言ではないほど絶大な影響力』を持っていたから」と書いている。千英宇氏によると、尹美香氏は当時、この案を喜ぶと思ったが「困惑に満ちた表情を浮かべた」という。千英宇氏は「尹氏は純粋に慰安婦被害者の利益を代弁していると思っていたが、慰安婦被害者と利害関係が違うのだとその時悟った。斎藤案は慰安婦被害者にとって悪いものではないが、尹氏にとっては自らの役割を終える死刑宣告に等しかったのかもしれない」と語った、とのことだ。
読売新聞は、2015年12月に朴槿恵(パク・クネ)政権下で行われた韓日慰安婦問題合意に基づき、「当時生存していた慰安婦被害者47人中の7割以上にあたる36人が1億ウォン(約870万円)の支給を受けた。にもかかわらず、文在寅政権は合意に反対する正義連の主張に同調し、合意を事実上白紙化した」と伝えた。
千英宇氏は「文政権は慰安婦被害者ではなく、正義連を被害者と勘違いしたのが大きな問題だ。文政権の言う被害者中心主義は、正義連中心主義だったということだ」と批判した、とのことだ。
ソン・ドクホ記者
韓国側の千英宇元青瓦台外交安保首席秘書官からも「(正義連は)慰安婦のためというより自分の利益を追求する団体だ」と証言しており、また「文政権は慰安婦被害者ではなく、正義連を被害者と勘違いしたのが大きな問題だ。文政権の言う被害者中心主義は、正義連中心主義だったということだ」と、正義連が慰安婦問題を取り仕切っていたという事も告発しています。
こうした事例からもわかるように、慰安婦問題とは「問題の解決」ではなく、90年代の時点で韓国政府と挺対協が「問題を永続化させるため」という利害の一致で利用しており、日本側の慰安婦問題支援者の多くは「そうした活動の支援」をしていたという事になります。
最初の方で紹介した「尹美香による横領疑惑」とはこの延長線上の氷山の一角ということになります。
3:これからでも解決すべき問題
こうした背景がある以上、「2015年の慰安婦合意では終わっていない」という態度を韓国側が取り続けるのならば、日本側は強力に「証言の客観的検証」と「検証されなかった経緯」の客観的検証を訴えるのも一つの手です。
長くなりすぎるのでリンクを貼るだけにしておきますが、
「まずいな、と思いました」30年寄り添った日本人が語る「慰安婦問題」の真実 文春オンライン 2020/06/04
bunshun.jp
日韓の慰安婦支援者の間で絶対視されている「金学順証言」自体、実は一切客観的な証明がされていないのです。
また、韓国で「慰安婦代表」のような扱いになっている李容洙氏にいたっては、時系列で証言を追うとこんな状態です。
1992年
「慰安婦=売春婦」論文に噛みついた元慰安婦の過去
JBpress 2021.2.20
https://web.archive.org/web/20210226044112/https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64163?page=3
番組のなかで李氏は「16歳のとき、ぼろを着て食べることもできなかったが、日本人がワンピース1着と靴1足を持ってきてくれた」「それを差し出して『行こう』と言ったのでついて行った」と話した。司会者が「だまされたのか」と再度尋ねると、李容洙氏は再度「日本軍の強制連行ではなかった」と述べた。「拉致」や「強制連行」ではなく誘惑に負けたのである。
動画
[単独] '慰安所ポン引きのねじれ」(1992年、KBS)が「日本軍の強制連行」(2007年、米議会)は、180度変わったイ・ヨンス映像証言 (韓国語)
https://youtu.be/VzZAqNVqKKo
1993年
写真記録 破られた沈黙―アジアの「従軍慰安婦」たち 単行本 – 1993/7/1
伊藤 孝司 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4833110318
「1944年夏、友達の母親に「豊かな生活ができる」所へ行かないかと誘われるが断る。その何日か後、その友達が家に誘いに来て外に出ると、軍服みたいな服を着た男がおり、ワンピースと赤い靴をもらって感激してついていった」
2002年
元「慰安婦」へ補償を参院議長らに法案成立要請
日本共産党 2002年6月26日
https://web.archive.org/web/20020812031745/http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-06-26/13_0201.html
韓国の李容洙さん(74)は、十四歳で銃剣をつき付けられて連れてこられたこと、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけたことなどを話し、「私は歴史の生き証人として今、生きている。この法案が審議され、成立することを望む」と語りました。
2003年
「消せない記憶」-日本軍「慰安婦」被害女性を招いて-
全国証言集会京都実行委員会 2004年12月4日
https://web.archive.org/web/20050207022507/http://www.geocities.jp/kesenai_kioku_04/kyoto/profile.htm
https://web.archive.org/web/20050129162422/http://tateiwa.kir.jp/0n/z01.htm
李容珠(Yi Yong-Su)
1928年韓国の大邱(テグ)生まれ。1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強かんされる。
2005年
慰安婦問題の解決願いデモ 支援団体が各国で
朝日新聞 2005年08月11日
https://web.archive.org/web/20050813014239/http://www.asahi.com/national/update/0811/TKY200508110102.html
韓国の大邱から15歳ごろ連行されたという李容洙(イ・ヨンス)さん(76)が「私という生き証人がこんなに何度も訴えても、日本政府は変わらない」と嘆いた。
2007年2月
慰安婦の人権を守る
米国下院外交委員会 アジア太平洋・地球環境小委員会 2007年2月15日
https://web.archive.org/web/20070228194330/http://www.internationalrelations.house.gov/110/lee021507.htm
(一部抜粋)
1944年の秋、16歳の時、友人のキム・プンスンと一緒に川沿いで貝を集めていたところ、丘の中腹に老人と日本人男性が見下ろしているのに気づきました。年上の男が指で私たちを指さし、日本人の男が私たちに向かって歩き始めました。年上の男は姿を消し、日本人は私たちに彼に従うように頼んだ。友達に何が起こったのか気にせず、怖くて逃げました。数日後、プンスンは早朝に私の窓をノックし、静かに彼女を追いかけるように私にささやきました。私は彼女の後に家からつま先立ちました。母に言わずに持ち上げる。私は暗いスカート、前にボタンで留められた長い綿のブラウス、そして私の足にスリッパを履いていました。川岸で私たちに近づこうとした同じ男に会うまで、私は友人を追いかけました。彼は30代後半のように見え、戦闘用の帽子をかぶったある種の人民軍の制服を着ていました。全部で、私を含めて彼と一緒に5人の女の子がいました。
私たちは駅に行き、慶州まで電車に乗りました。電車に乗ったのは初めてでした。慶州ではゲストハウスに入れられました。私たちはゲストハウスに2日間滞在し、その間にさらに2人の女の子が私たちに加わりました。今、私たちの7人がいました。電車に乗って大邱を通り抜けると、壊れた窓から家が見えた。突然母が恋しくなりました。家に帰りたいと言って泣き始めました。私は服の束を押しのけて泣き続け、男に降りるように頼んだ。彼は拒否しました。電車が走り続けていたので、疲れ果ててようやく眠りに落ちました。私たちは数日間旅行したに違いありません。
2007年3月
日本の首相による戦争奴隷制の否定は古い痛みを明らかにする
CNN March 3, 2007
Japan PM war slavery denial uncovers old pain - CNN.com
最近の東京旅行でインタビューを受けた韓国人の李容洙さん(78)は、1944年に日本兵が台湾で性奴隷として働くために彼女を家から連れて行ったとき、彼女は14歳だったと
2007年4月
慰安婦問題で在米韓国人ら抗議デモ ホワイトハウス前で
朝日新聞 2007年04月27日
https://web.archive.org/web/20070429030815/http://www.asahi.com/politics/update/0427/TKY200704270157.html
李さんは「私は15歳の時に拉致された。まわりの女性は誰も売春婦のようにはお金をもらっていなかった」と訴えた。安倍首相が宿泊する迎賓館ブレアハウス前まで足を運び、「謝れっ」。デモに参加した米国人男性は「日本の政治家は歴史を書き換えようとしているのか」と語った。
79歳元慰安婦、ハーバード大学で涙の訴え
朝鮮日報 2007/04/30
https://web.archive.org/web/20070502011127/http://www.chosunonline.com/article/20070430000025
16歳の時に強制連行された後2年間、日本兵の「慰安婦」をさせられたイ・ヨンスさん(79)は、ハーバード大の学生の前で同日、当時の「地獄の日々」について証言した。1944年に強制連行された後、繰り返し受けた無差別な暴行・強姦・拷問の悪夢を60年以上経った今でも忘れることのできないイさんの叫びに、聴衆は嘆き、目頭を熱くした。
2015年8月
<慰安婦生存者13人証言>おばあさんの韓服(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.25 10:32
https://japanese.joins.com/JArticle/204814
彼女は16歳のときに大邱の自宅の近所の川岸でカワニナをとっていて「友だちのプンスン」と一緒に、軍帽を深くかぶり鼻と口しか見えない男に引きずられて行った。生まれて初めて汽車に乗った。その旅行が不幸の始まりになるとは思わなかった。平安道安州(ピョンアンド・アンジュ)で船に乗り換えた。「どこへ行くのかも分からなかった。後になって台湾の新竹の神風部隊ということを知った」。
2015年12月
【コラム】「日本のせい」ではなく、日本を畏怖させる外交を
朝鮮日報 2015/12/30
https://web.archive.org/web/20151230040439/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/12/30/2015123001044.html
大邱は李容洙さんの生まれ故郷だ。15歳だった1943年10月、「隣人に呼ばれて外出したところ、ほかの女性4人と一緒に日本軍に連れて行かれた」という。汽車・トラック・船などに乗り換えた末に行き着いたのが台湾だった。そして10代半ばにして日本軍の性の慰みものになった。
2020年5月
慰安婦被害者「日本政府の主張『国家免除』を適用してはならない」
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.05.21 07:10
https://japanese.joins.com/JArticle/266156
初めての裁判が開かれた昨年11月、旧日本軍慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さんは「丁寧に育ててくれた両親がいたが、軍人に連れ去られて電気拷問にあい、1946年に帰ってきた」として「日本が堂々とした立場であるなら裁判に出てこなければならない」と話した。
2020年11月
慰安婦被害者 損賠訴訟の最終弁論で日本政府に謝罪要求=韓国
聯合ニュース 2020.11.11
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20201111005100882
李さんは、法廷で最後に言いたいことを問われ、「14歳のときに連れて行かれ、今は老人としてこの場にいると」し、「判事と法だけを信じて(解決を)待っていた」と述べ、自身には残された時間が少ないなどと涙ながらに訴えた。
見てのように、話をする度に証言内容が大幅に変わっており、一貫性が全くないのです。
検証しなければ「何が問題だったのか」すらはっきりしません。
証言の検証が挺対協によって阻まれてきた可能性が極めて高く、また未だ日韓の間で「慰安婦の定義」に違いがある上に、日本側支援者はこの「慰安婦の定義の違い」があることを「見なかったこと」にしているという現状があります。
そしてこの韓国側の慰安婦の定義が「慰安婦の証言」を根拠としており、実際の証言は客観性がないどころか矛盾だらけです。
これは李容洙証言だけではなく、複数回証言している慰安婦の証言に一貫してみられる傾向であり、また証言の公的記録が1回しかない事例の場合も、そもそもそれが事実であるという根拠は存在していないというのが現状です。
この状態で「慰安婦の名誉の回復」とか「法的責任の追及」などと訴えても、前提が成り立っていないのですから主張自体が成り立ちません。
である以上、韓国側や日本の支援者たちが「慰安婦合意では解決していない」という態度を取るのならば、最低限「証言の客観的検証」を行わない限りお話にならないという事で、これが慰安婦問題におけるもっとも重要な部分になるのです。
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