日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

【韓国起源説】日本人の反論は韓国人に通じない


さて、今回の内容なのですが、タイトルで誤解する方もいるかもしれないので最初に注意書きを。
まずこれは別に韓国人の起源主張が正しいとか、日本人の反論が間違っているとか、そういった話ではありません。


日本人と韓国人とでは、こういったものを考える場合に重要とする部分や根拠とする部分、果ては発想の基点となる部分そのものや常識に大きな違いがあるので、日本人の常識を前提として反論をしても、韓国人にはそもそも意味が通じないという事です。


具体的に書けば、例えば日本人は韓国人が起源主張をした場合に、それがどういった発展をして今のような形になったのかとか、それが日本でどういった文化として定着して行ったかとか、その時代ごとにその文化に関係したこんな人物がいた、或いはこんな文献があったと、そういった反論をする人が多いです。


これは「我々の価値観」で考えれば正しい反論の仕方なのですが、韓国人はそんな話を聞いても全くピンときません。
それどころか、前回書いたように韓国人は文化の模倣と発展と研鑽の歴史そのものを重要視していないので、「一体日本人はなにを見当違いの事を言っているのだ」となってしまうのです。


また、韓国人や韓国を擁護する人々は、様々な韓国起源説への批判に対し「こんな事を言っているのは一部の例だけだ」「多くの韓国人は日本の文化と認めている」と反論しますが、これも"ある意味では"間違っていません。


具体的に書くと、個別の事例の韓国起源説に関しては、実は一つ一つを見ると完全にそう信じている韓国人はそこまで多く無いんです。
しかし、矛盾するようですが多くの韓国人は韓国起源説そのものについては、多かれ少なかれ大半が信じています。


これはどういう事なのでしょうか。
それを知ってもらうためにまず以下の記事を。


ユ・ホンジュン日本踏査記ワン間"日本美術は韓国美術の外縁"
毎日経済(韓国語)  2014.11.04 16:04:23
http://news.mk.co.kr/newsRead.php?sc=30000023&year=2014&no=1387414
文化遺産の語り手、ユ・ホンジュン(65)明智(ミョンジ)大客員教授が'私の文化遺産踏査記'日本編最後の第4冊'京都の名所'を出版した。これを記念して4日、光化門の某レストランで記者らと会った彼は日本編を通じて伝えたかったことや、今後の活動計画を明らかにした。
(中略)

日本踏査記は'九州'を皮切りに'飛鳥・奈良'、そして'京都の歴史'に続き今回の'京都の名所'で幕を下ろした。この日本編をユ教授は'私たちの'の視点で読む文化遺産の話という。そのため、今回の最終冊だけでなく全編にかけて韓半島渡来人が日本列島に残した跡を探る旅行日程を取る。

'京都の名所'とは'彼らには履歴があり、私たちには理由がある'という副題のように私たちの技術と文化を土台に彼らの文化の花を咲かせた話を入れる。特に日本文化の特色の一つと見なされる'庭園'の話を重点的に扱う。具体的には日本の知恩院建仁寺大覚寺天龍寺、相國寺と金閣寺銀閣寺、南禅寺大徳寺桂離宮修学院離宮を順に踏む。

日本の文化形成において韓半島の影響は無視できない。しかし、かと言ってその点を過度に強調してはいけないとユ教授は強調する。「日本踏査記は日本を正しく理解しようというものです。日本が(古代文化の相当部分を韓半島から受け入れた)過去の歴史のコンプレックスで私たちを無視し、私たちは近代史の悲劇のために日本を無視するのが実情です。日本が私たちの文化を受け入れたことは否めませんが、それでも日本の全てのものを私たちが与えたと理解しては困ります。」

韓国の慶州に該当する日本の奈良には東大寺という由緒ある巨刹があり、そこには世界最大の青銅大仏が安置されている。この大仏は聖武天皇(在位724~749)が発願して作った。この事件をユ教授は「日本が唐や新羅のような古代国家として成立したことを見せる事件として今で言えば東京オリンピック開幕式と同じだ」と評価する。

「日本列島に移住した百済人の子孫で5代や6代、7代の子孫は百済人とみるべきか?日本人とみるべきだ」と言い、韓国文化から多くの影響を受けたが、彼ら自ら成し遂げた日本文化を尊重しなければならないということだ。

さらに進んで彼は「日本美術は韓国美術の外縁」と強調する。彼によれば日本美術は単なる韓国美術の模倣や伝来ではない。韓国文化から影響を受けたが、彼らなりの独自の文化を作り上げたという意味だ。そのため、日本美術を一緒に知ってこそ韓国美術の領域もまた、外縁を広げられるという意味であろう。

韓・日間の古い感情と関連して彼は「韓国と日本が極端に対立したのは壬辰倭乱と近代35年間の日本の植民支配の二回だけではないか」と反問し、2度の倭乱直後に両国が見せた和解ムードで今日の対立を解消する方法を提案した。ユ教授は「徳川幕府は朝鮮が必要で、鎖国政策を固守する中でも朝鮮に対し腕を広げた。朝鮮政府もまた、壬辰倭乱当時、朝鮮王陵を暴いた犯人2人がにせ物だと思いながらも和解のジェスチャーで受け入れた事実に注目しなければならない」と強調した。

だが、日本に対する批判も多く付け加えた。特に日本は自発的な犠牲で民主主義を獲得したことがないとし、「日本の民主主義は大正時代、机上で論じた民主主義と占領軍マッカーサーが強制的に植えた民主主義以外にあるか」と反問した。

彼は私たちが日本を最も見習う点として匠の精神をあげた。韓日ワールドカップ当時、日本側の大会組織委員長が韓国代表団を自分のたいやき屋に連れていった事実をあげ、「その家の家訓が'頭から尻尾までアズキ'だった。だましてたい焼きを作らないことを表現している。日本にはこういう匠の精神があちこちで生きていてそれはうらやましい」と話した。

もちろんこういう匠の精神が行き過ぎて伝統の継承だけ没頭したあげく、作家の芸術魂を最後まで燃やした芸術作品が少ない短所もなくはないと付け加えた。


まず少し横道に逸れてこの記事そのものについて解説すると、これは要するに前回取り上げた韓国人の技術軽視の考え方を批判し、「日本を見習え」としている内容なのです。
しかし、それをそのまま韓国人に伝えると、恐らくこの教授は袋叩きにあい「親日派だ(売国奴)」とレッテルを貼られ社会的地位を失います。


だから、こういった表現を多用し韓国人の自尊心を満足させた上で、「元は我々にあった考え方でそれを日本に教えたものなのだから、我々はその考えを取り戻さないといけない」と、「その意味で日本を見習わなければいけない」と、そう書くことで、自らの保身としているのです。


記事そのものはそういった、日本人から見ると無駄に複雑な経緯があるのですが、今回の本題はそのある意味で「前置き」の部分です。
記事中で「日本の文化は韓国文化の外縁だ」としており、そこから独自の文化に発展して行ったとしているのですが、この考え方が重要で韓国人の殆ど大半が「元々は我々の文化だ」と考えています。


つまり、日本の文化は我々が教えてやったものだと、石器時代だった日本に我々が高度な文明を「与えてやった」から今の日本の文化があるのだと、日本の文化は百済文化の延長であると、そう考えているのです。
ですから最初に書いたように、個別の起源については懐疑的な韓国人が多くいたとしても、韓国起源説そのものは非常に韓国内で支持されているのです。


これが解りやすい事例がこちらです。


日本文化の「元祖」、百済の息吹を感じる忠清南道の旅
朝鮮日報 2012/09/12 13:22
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/12/2012091201436.html(リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20120913084057/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/09/12/2012091201436.html(ウェブアーカイブ
東京の代表的観光スポット・上野恩賜公園。日本近代化の立役者である西郷隆盛像で有名な場所だ。その片隅には二つの石碑がある。

 これは日本に漢字を伝えたことで知られる百済王仁(ワンイン、日本での呼称=わに)博士の業績をたたえるため建てられた石碑だ。石碑には、論語千字文(漢字を教えるための漢文詩)を持ち込み、孔子の死から763年後に日本に儒教を伝えた、と詳細に記述されている。

 この石碑のほか、大阪府枚方市には王仁の墓がある。このように百済と昔の日本は友好的な関係だった。果たして百済とはどんな国だったのだろうか。

 7日、忠清南道の内浦新都市で「第1回百済の息吹を訪ねるドライブツアー」の開幕式が行われ、クォン・ヒテ忠清南道政務副知事がその答えについてインタビューで語ってくれた。

 以下はクォン・ヒテ忠清南道政務副知事との一問一答。

Q.忠清南道百済のつながりは?

A.忠清南道には百済の首都があったと考えられています。特に公州と扶余は百済最後の王朝の首都として知られています。忠清南道の各地には百済の遺跡や文化財が多いです。中でも庶民の生活を知ることができる「百済文化団地」は百済の全てが分かる所です。

Q.日本と百済は特に縁が深いというが、それはなぜ?

A.百済と日本は歴史的に多くの関連性があると考えられています。日本の建物の屋根が持つ線と百済の五重石塔などの線を比較すると、そっくりであることが分かります。さらに、5世紀ごろには王仁博士が日本に論語千字文を伝えたことも知られています。こうしたことから百済は日本文化に多大な影響を及ぼしたとされています。

Q.日本人観光客に伝えたいことは?

A.韓国人は全ての始まりである「元祖」という言葉が好きです。日本の皆さんも元祖について興味があると思います。忠清南道では日本文化の元祖ともいえる百済の文化を目で確かめたり、体験したりできます。さらに、自然に優しく現代的なものも大切にする多様な文化観光スポットが楽しめます。韓国にいらっしゃったら百済の息吹が感じられる忠清南道へぜひお越しください。

Q. 「第1回百済の息吹を訪ねるドライブツアー」の趣旨や目的は?

A.最近、韓国では自然と一つになるキャンプや、どこでも情報検索が可能なスマートフォンがブームです。この二つを組み合わせて子どもたちがいにしえの百済の息吹を感じ、体験できればという思いから、今回のツアーを企画、開催することになりました。

(中略)
 忠清南道の関係者は「今回の『百済の息吹を訪ねるドライブツアー』は新概念の観光ツアー商品。今年の成果を詳しく分析した上で、今後の応用方法や来年の推進計画について観光専門家の意見を聞き、忠清南道の観光産業発展のためのロールモデルとして生かしていきたい」と語った。


実体は大きく違い、百済と言う国は日本に服属していた時期と敵対していた時期しかありません。
そもそも韓国人が「百済が日本に教えてやった」としているものは全て中国の文化であり、更にここでも言及されている王仁という人物は明らかに楽浪郡出身の漢民族です。


また、以前も少し書きましたが日本の仏教様式や建築様式は中国古代の南朝様式に近いものであり、古代の日本が中国南西部から東南アジアにかけてと非常に強いつながりを持っていたことが解っているのですが、韓国人の中では「全て我々が教えてやったもの」という事になっています。
(このため韓国人は遣隋使や遣唐使の事を意図して無視します)


韓国人の教わる歴史の中では、日本は百済が「支配してやる」まで何の文明も持たない未開人だった事になっているというわけですが、これが韓国人の歴史観韓国起源説の大本の発想です。
つまり、日本にどんな文化があったにせよ、その元となるものを何もなかった日本に教えたのは我々なのだから、その文化の源流は我々にあるのだ、日本は百済支配下で文明を開いたのだと、そういう事になっているから、日本人が日本国内での文化の発展や文献・人物などをいくら提示しても無意味なのです。


そして、この事は過去に行われた日韓の共同歴史研究などでも非常に顕著に現れています。


日韓歴史研究報告書の要旨 
47NEWS/共同通信 2010/03/23 18:02
http://www.47news.jp/CN/201003/CN2010032301000547.html
 第2期日韓歴史共同研究の報告書要旨は次の通り。(委員以外の執筆者を含む)

 一、古代史

 【安羅倭臣館】

 ▽韓国側 任那日本府は「日本書紀」にあるが、倭の任那支配説は説得力を喪失。4~5世紀は存在していない。6世紀にはあったが、当時の用語でもない。伽耶(かや)(任那)の一部だった安羅が倭人官僚を迎え入れた外務官署だ。間違った先入観を呼び起こすので「安羅倭臣館」という用語が適当だ。官僚は安羅にいた倭人で臣下だった。(金泰植・弘益大教授)

 ▽日本側 日本書紀は「在安羅諸倭臣」とも表現。任那日本府を使わない方が良いというのは同じだ。ただ、安羅にいる倭人が自立した活動をしていた場所で、安羅に隷属していなかった。(森公章東洋大教授)
(中略)
【教科書の記述内容】

 ▽日本側 文禄・慶長の役について、最近の日本の教科書は平板なトーンで歴史的事実を記述。韓国も、以前は民族の優越性を強調する傾向があったが、今は比較的冷静な記述となっている。それぞれの立場から脱却した視点や、新たな呼称が必要だ。(太田秀春・鹿児島国際大准教授)

 韓国は日本の憲法9条天皇や首相が謝罪と反省に努力した事実を記述してほしい。双方は「隣国の現代史」の教科書を作るべきだ。(重村智計早大教授)

 韓国の教科書が朝鮮民族の始祖とされる檀君の神話をそのまま認めるような記述をしているのは、資料考証に基づく結論なのか疑問だ。(井上直樹京都府立大准教授)

 ▽韓国側 日本の学界が豊臣秀吉を評価するほど、韓国が侵略への警戒心を抱くのは自然だ。戦乱の記憶は生々しく鮮明な傷跡として残っている。正当化する口実を学問的に批判できず、日本の教科書に記しているのは問題だ。戦争責任の重みを認識できない。(玄明☆(吉を横に二つ並べる)・京畿高校教諭)

 日本では近代史を強国に成長する華やかな歴史として記す一方、朝鮮半島や中国大陸を侵略し、多くの人々に被害を与えたことの記述は消極的だ。(金度亨氏)

 日本の教科書の韓国についての記述の改善は97年版が頂点で、その後悪化。中心には右翼の政治勢力と「新しい歴史教科書をつくる会」がある。(辛珠柏氏)

 日本の教科書で渡来人は、古代王権に包摂された存在として機能的な側面が強調された。日本民族の主要構成員であり、古代国家を建設した開拓者との観点が必要だ。(延敏洙・東北亜歴史財団研究委員)



全般として、日本側が学問としての歴史を語っているのに対し、韓国側は政治としての歴史を語っているのがわかります。
また、韓国人は朝鮮半島から日本という文物の流れしか認めておらず、日本から朝鮮半島という流れを絶対に認めたく無いと、そういった「感情的動機」があり意見対立が起きていることも解ります。


要するに、韓国人は日本から朝鮮半島という文化の流れを決して認めないのです。
過去、韓国では前方後円墳や勾玉が発見され、「やはり日本に文化を教えたのは我々だったのだ」と騒がれた事があったのですが、後にどちらも日本由来である事が判明、日本から朝鮮半島への文化の流れを示す具体的証拠の発見となったのですが、これがはっきりすると韓国の学者達はそれらを文字通り「無かったこと」にしてしまいました。
韓国人の「かくあるべき姿」の中では、それは許されない事なのです。


そしてもう一つ、日本人からの反論を韓国人が受け付けない理由があります。
上記で挙げたこの韓国人の考え方は近年特に先鋭化しており、韓国社会でこの考え方に異論を挟むことは年々難しくなってきています。
結果的にどんなに怪しげな韓国起源説でも無批判にメディアで取り上げられるようになり、異論は全て「日帝残滓だ」とのレッテル貼りをされてしまうのです。
どういう事なのはか以下の記事を


大韓民国は生きられなかった国だったのだろうか
コナスネット(韓国語) 2014-07-26
http://www.konas.net/article/article.asp?idx=37318
人々は過去、大韓民国は生活できない国だったが、現在は檀君以来最も良く暮らせる様になったと話す。もちろん、過去のどの時代より科学技術も発展し衣食住の資源も豊富でIMF世界銀行、国連など国際機構が大韓民国を先進国と規定しているから、違うとは言えない。しかし、全世界の国家と時代別に比較すれば大韓民国が過去に生活できない国だったかは異論があり、これは最近、経済歴史学者らによって提起されている。

大韓民国の歴史は三国時代、高麗、朝鮮と続くが高句麗百済を含むすべての王朝が500年以上長期間存続した国家で、世界の歴史上、大韓民国ほど王朝が長期間続いた国はローマを含めていくつかの王朝しかない。すなわち大韓民国は歴史的に様々な事件はあったが安定して平和で暮らしよい国だったということだ。
(中略)
このような日本の植民史観により日帝強制支配期の私たち国民は過去、朝鮮は生きられない無知な国家であり、朝鮮人は無能だから文明化された日本人に帰属したのは光栄という思考が無意識的に注入された。また、その影響で今も大韓民国が過去、朝鮮時代にも生き難く無知だったことから考えて、何か事件が発生すれば‘大韓民国はこの程度’という敗北主義、消極主義思考が現在も残存しているのだ。

朝鮮末期に朝鮮が間違ったのは大義と国民を重視する儒教文化によって西欧文明を改革的に受け入れ、先進強大国に跳躍できなかったわけだが、朝鮮末期まで朝鮮は西欧技術を除いて文化的でも経済的でも先進国的位置を維持し平和で暮らし良い国家であった。すなわち東洋国家では良く暮らしていたが、国家に剛悍軍隊と経済力(技術と資金)、民族意識がなければならないという西欧の現代式思考に適時に転換できなかったことが国権剥奪の痛みをもたらした。
(後略)



要するに現実の学問の世界における科学的考証としての朝鮮の歴史は、現在の韓国人の中では「朝鮮を貶め統治するために日本が作り出した陰謀である」との考えが一般的なのです。
これを言われてしまうと、客観的視点で歴史を見ようとする韓国人は黙るしかありません、異論を挟めばその先に待っているのは「日帝時代を肯定する親日派」としての破滅ですから当たり前でしょう。
結果的にどんな韓国起源説でも言ったもの勝ちになります。


日本人による韓国起源説への反論も同じです。
日本人がどんなに「それは韓国起源ではない」と説明しても、韓国人からしてみると「我々を貶めるために日本が過去に作り出した資料を利用しているのだ」としか考えません。
一種の思考停止なのですが、子供の頃から学校でも家庭でも「文化的に劣等だった日本に文化を教えてやったのだ」と教わり続けてきた韓国人にとっては、それこそが絶対唯一の正しい歴史なのです。
極論を書けば、日本人の反論に同調する事は、韓国人にとって日本統治時代を肯定することと一緒なのです。


このようにして、韓国人は漠然と韓国起源説を信じるようになります。
発想そのものが日本人とは大きく異なり、「かくあるべき姿」を基調とし、それに対する異論は日帝残滓であるとして頭ごなしに否定してしまう。そして多くの韓国起源説が無批判に蔓延し、個別の事例としてではなく、「文化劣等国の日本に文明と文化を教えてやったのだ」との考えが教育を基点として広く社会に浸透した、これが現在の韓国の姿です。


そして面白い事に、韓国人のこの考え方は「日本は文化劣等国である」「劣等な日本に文化を教えてやったから、我々は高尚な文化を持っているのだ」と、まさに相手の劣等さを担保として自らの優秀性を保障する、「蔑視ありきの自民族中心主義」のうえに成り立っているのです。
こんな風に


【その時の今日】永遠に癒やされない傷、庚戌国辱
2010年08月27日17時05分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
http://japanese.joins.com/article/512/132512.html?sectcode=140&servcode=100
1910年8月29日。 徳川幕府末期にすでに芽生えていた征韓論が物語っているように、明治維新(1867年)以後に近代帝国主義国家に生まれ変わる前から、この地をのみ込もうした侵略者は宿願を果たした。 半面、私たちは35年後の8月15日、光復(解放)のその日が来るまで、有史以来初めて国土と民族が、従来一枚下だと見下げていた文化的劣等者に踏みにじられる痛恨の歴史を刻んでしまった。
(後略)


最後に、この韓国人の考え方なのですが、これを読んで皆さんはどう感じたでしょうか。
多くの人は「コンプレックスの塊」とか「醜い民族主義者」とか、人によっては「劣等で哀れな民族」と感じたのではないでしょうか。


これに関して、私自身も過去には同じように考えていました。
しかし様々な試行錯誤のすえ、私はこんな結論に至りました。


「韓国人は我々が普段常識として見ている世界と違う世界を見ている人々なのだ」と。


文化や価値観やあり方が違えば、同じものを見ていても見え方が全く違うという事は多々あります。
例えば月などが良い例でしょう。
月は日本では原則的に昔から「兎が餅をついている」と表現されてきましたが、他の国では例えば女性の横顔に見えるといったように、同じ物を見ていても前提としている文化的・社会的背景の違いから全く別の表現となります。


韓国人の場合、常に主観でものを考え現実よりも「かくあるべき姿」を重要視し、他者を蔑視することで自らのアイデンティティーを確立する、そういった文化的・社会的背景を持つ人々なので、我々と同じ物を見ていても見え方が全く違うのです。


そして我々が常識として客観的事実を重要視するように、韓国人は常識として主観に基く「かくあるべき姿」を重要視するのです。
ここまで前提とする背景が違えば、我々が我々の常識の前提に立って反論をしても通じるわけがありません。


優劣や善悪ではなく、「常識」そのものが我々とは違うのです。
そもそも優劣や善悪というのは、同一の常識や価値観、あり方を共通認識としてもつ集団の中でしか通用しなものです、基準となるものの根本が違えば優劣や善悪の基準も変わるのですから、これは当たり前の事です。


ですから、日本人は安易に韓国人の主張に同調するでもなく、逆に頭ごなしに劣等だとか害悪だとか断じて否定するのでもなく、「我々とはあり方そのものが違う人たちなのだ」という前提に立ち、一定の距離を置いてお互いに必要以上に干渉しない、それが最も「平和的」な韓国人との接し方でしょう。
価値観の違いを無視した過度の干渉は、それがどんな物であれ対立や矛盾を生み出すだけです。
少なくとも私はそう考えています。



2014年11月5日23時35分追記
勿論、韓国人が韓国人の価値観が通用する枠の外で自らの価値観を振りかざしたり押し付けをしてきたら、毅然とした態度で「第三者に見える形」で反論をすべきでしょう。
韓国人自身は理解できなくとも、第三者に理解してもらえれば問題そのものは解決しますから。
重要なのは、対応を第三者の前で行い、反論も「韓国人への反論」ではなくその前提で組み立てることです。