日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

【ゆっくり解説】リベラルという勘違い

さて、本日は実のところリベラルではない日本のリベラルの問題について扱っていきます。


本日の投稿動画
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注意
・この動画は「マスコミ問題」を扱っています

・「マスコミ問題」であり右派・左派等の陣営論争は本題ではありません

・「特定の国との特別な関係」は問題の枝葉です、主問題は業界の体質です

・自身の常識が相手にとっても常識とは限りません、「他者がそれを見たらど
う思うか」という客観性を常に持ちましょう。

・日常生活で注意する程度には言動に注意を心がけてください

・リクエストは原則受け付けていません

・引用ソースへのリンクが同時掲載のブログにあります

・毎週土曜日更新

※以下は動画のテキスト版です



お品書き

・リベラルと寛容さ

・寛容さの誤用

・保守という勘違い


レイム マリサ
ゆっくりしていってね


マリサ
さて、今回はマスコミ問題なので私が扱っていくぜ、と言いたいところだが、今回はタイトルにあるように「リベラル」というものについて扱うので、それより少し範囲が広くなるぜ。


レイム
という事は、今回は「リベラルについて」を扱うって事でいいの?


マリサ
そこがちょっと複雑でな、その辺りを扱うと欧州やアメリカの政治史について扱う事になるんだが、そうなるとマスコミ問題からも日本で起きている問題からも直接関係のない話になってしまうので、今回はあくまで「日本でリベラルを名乗っている人達」の問題が中心になるぜ。

レイム
まあ、特にアメリカのリベラルの場合は日本の事情とはだいぶ違うし、それはマリサ
の言うように「政治史」の話になってしまうしね。


マリサ
そうなんだぜ。
なので、この動画では「リベラル」の基本的な考え方を説明した後は、日本における誤用と弊害についてを説明することにするぜ。


マリサ
そんなわけでそろそろ本編へいくぜ。


リベラルと寛容さ


レイム
で、最初は「リベラル」について扱うのね。


マリサ
そうだぜ。
ただし、扱うのは政治理念としてではなく「基本的な考え方=寛容さ」についてだぜ。
まずはこちらの記事から

『不寛容論』に学ぶ、「不愉快な隣人」への振る舞い方
日経ビジネス 2021.3.1
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/022600179/

自分と「異質」と感じたもの、「不愉快な隣人」に対して、人はどのように振る舞うべきか。

 古くて新しいこの問いに『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』(森本あんり著、新潮選書)という本が示された。森本先生は国際基督教大学ICU)の人文科学科教授を務め、当日経ビジネス電子版の長寿人気連載の著者、小田嶋隆氏の高校時代の級友でもある。

 よくある俗説として「一神教の教徒がどうしても不寛容なのに対して、日本人は多神教無宗教?)だから異文化に寛容」というものがある。だが、本書で引用された調査によれば、日本人は「他宗教の信者を信頼する」「他宗教の信者も道徳的と考える」人の比率が中国と並んで低く、「移民・外国人労働者と隣人になりたくない」率が高いという。

 「つまりこの両国(※注:日本と中国)では、何の宗教であるかを問わず、そもそも宗教というものに対する寛容度が低いのである。(中略)外来宗教との接触が少ないから、自分たちは寛容だと思い込んでいるだけだ」(同書「プロローグ」6ページより)

 森本氏は「人は未知のものには不寛容に、既知のものには寛容になりやすい」と言う。そして宗教を信じる人は、我々にとっては意外なことに「多くの宗教に真実がある。だから他人の宗教も(自分の宗教と同様に)尊重せねば」と考えるのだという(※米国での調査)。

 しかしそうはいっても「寛容」という言葉、そして「宗教」には、どうしても上から目線の響きや、行儀の善さを強制される息苦しさを感じてしまう。そんな読者に森本氏は「ロジャー・ウィリアムズ」(1603年ごろ~1683年)というとんでもない主人公を用意した。自らの信仰に忠実なあまり、母国である英国を離れて米国へ渡り、上司や恩師といえど「違う」と思えば容赦なく攻撃する「ザ・空気を読まない男」。

 しかし彼は「燃えるような信仰を持つピューリタンと言えるが、そうであるからこそ異端や異教には徹底して寛容を貫いた」。先住民から正式に土地の利用を認めてもらうべく、その社会に溶け込み、彼らの信頼を得て、ついには正式の契約も結んでしまう。口だけではなく、本気で「異質な隣人」への寛容を貫いてしまった男なのだった。

 「その内側の倫理を探ることで、われわれは容易に不寛容に転ずることのない『筋金入りの寛容』とはどんなものであるかを知ることができる」(同、11ページ)

 日本のコラム界に残った数少ない「空気を読まない男」小田嶋隆が、この本をどのように読んだのか、ご一緒に聞いていきましょう。(司会:編集Y)

小田嶋 隆(以下、小田嶋):『不寛容論』読みました。これ、素晴らしくタイミングのいい本だよね。

はい、私もそう思います。ネットを中心に世間が「不寛容」に走る中で、素晴らしいタイミングだと思います。すごく読みやすくて面白いし。

森本あんり(以下、森本):そう? いや、ほら、ロジャー・ウィリアムズが出てくるのが第三章(「異議申し立ての伝統」)以降でしょう。第二章では中世の話をしていますよね(「中世の寛容論」)。さっきこの本の編集者の三辺直太さんと「二章でだいたいもうくたびれてつまずいて、最後まで行ってもらえないんじゃないか」という話をしていました。

小田嶋:それは、そういう読者って2割か3割いるかもしれないですね。

実は私も、その辺でちょっと息切れをしかけたんですが。

森本:ああ、そう、やっぱり。
やらかす男、ウィリアムズの「寛容」

やっぱりウィリアムズがやらかしたあれこれの逸話に入ったところから、がぜん面白くなって。

小田嶋:うん、ウィリアムズが出てくると、猛烈に面白くなるんですね。

森本:そう? わあ、うれしいな。

小田嶋:話がスリリングになるんですよね。

そうなんです、え、何言い出すの、何やっちゃうの、この人、って。

森本:本当にとんでもない人なんですよ。

小田嶋:波瀾万丈でね。とにかく空気を読まないというか、読めない。

森本:ぶっ飛んでいるというかね。

だからそこまでは頑張って読んでほしい。

小田嶋:久しぶりに読書ノートというやつを取りましたよ。

おっ、分かります、その気持ち。いい話がもりもり連続するから「ちょっとまって」と、整理したくなる。

森本:うわ、光栄だな。そんなふうに読んでくれる学生って最近いないよ。

小田嶋:面白かったのは、このアン・サドレア夫人とのね(第六章、225ページ)。空気の読めない宗教家と、真っ向からやり合った女性の書簡。

ああ、すごかったですね。ほとんど殴り合いみたいな手紙の応酬。

森本:そう(笑)。あれはもうハラスメントですからね、ほとんど。

小田嶋:そして最後まで読むと、そういう空気の読めない偏屈な、ちょっと普通の意味で寛容じゃない人がたどり着く寛容、というのは、我々みたいな物分かりのいい人間が、何となく妥協している寛容とは違う視点にたどり着いていることが分かる。感慨深かったですよ。

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/022600179/?P=2

小田嶋:日本人は何となくなあなあでいくじゃないですか。言いたいことも言わずに何となく「いいや、いいや」でごまかしておくことを寛容というふうに、第一感では思っていますから。ちょうど同じ時期に読んでいた本で、この『事大主義―日本・朝鮮・沖縄の「自虐と侮蔑」』(室井康成著、中公新書)というのがあるんですけど、森本あんり先生が前書きなどで指摘している「日本は多神教だから寛容だよ」という思い込みとちょっと通じる話で。

森本:そうですか、最近の本?

2019年3月ですね。

小田嶋:事大主義、簡単に言えば「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」。場を乱さず力学に従って生きていくのが正しい、というのが、我々がイメージする「寛容」で、それと、ロジャー・ウィリアムズさんみたいにいろいろな人に正論をもって突っ掛かっていく、何だかとても面倒くさい人が、その面倒くさい闘争の果てに、考えに考えてつくり上げた論としての「寛容」。比較すると、我々はまだ寛容の入り口にも立ってないんじゃないかと感じました。

 寛容みたいな、すごくもやっとしたものについて、日本人は「理屈を言うな」という話になるんですよ。

ありますよね。

森本:ああ、そうか。

小田嶋:「寛容というのは男の度量なんだ」とかね。腹を割って本音を示せばちゃんと腹落ちするんだと。腹落ちって気持ち悪い言葉ですよね。番長と転校生が河原で殴り合いをして分かり合っちゃったりする青春ドラマみたいな、あの分かり合っちゃう感じというのは、我々の中に明らかにある。排除だったり、差別だったり、偏見だったり、難しく語ればいくらでも難しく語れる話を「お互い同じ飯を食えば分かるじゃないか」というね。

森本:僕、これ、ちょっとどうしようかなと思いながら「あとがき」に書いたんだけど……。世論は国語の乱れに「寛容」といわれるが、実はそれは「雑」になっただけだと。これは小田嶋が言ったんだよね。

小田嶋:あ(笑)。

森本:それと同じ筋の話なんです。これまでの日本だったら、事大主義、長いものに巻かれろでやってこられたし、それはそれでいいと思うんですけれど、この本の中でも少しだけイスラムに触れましたよね。

はい。
宗教に「寛容」だったのは、周りに少なかったから

森本:イスラム教はこれから全世界で伸びていくんですよ。東南アジアはもちろん、日本にももうすでに身近なところにイスラムの教えを信じる人々がたくさんいるわけです。そういうところで、異質な思想だと排除し続けるのではやっていけないと思うんですよね。

小田嶋:なるほど。

森本:ところが、だからといって「なるほど」とみんな心から共感して、納得して、愛し合う関係になるかって、それは難しいと思う。「じゃあ、どうするか」という問いですよね。

小田嶋:いや、それを本当に最後まで読んだときには、これ、答えをもらったわけではないんだと思って。

 「寛容であろう」とすること自体、「私はあなたに対して寛容であります」ということ、その言い方が「おまえ、いったい何様なんだ」というものをちょっと含んでいるのは、それも言われてみて、なるほど、目からうろこで。日本で今、ポリティカリーコレクトだったり、リベラル思想だったりがえらく嫌われていることのうちの1つは間違いなく、リベラルって偉そうに「俺たちは許してやる」という態度でいるよな、それって気持ち悪いよね、おまえら、俺らを許す権利があるのか、と言われているところだと思うんですよね。それはトランプ大統領を生んだものでも何かあるような気がしてしょうがないんですけれども。

森本:そうですね、本当に。

小田嶋:オバマ大統領に代表されるような「寛容であろう」と努めている人々、それに対して「もういいかげん、うんざりしたぜ」という声がトランプの虎の威を借りる形で出てきたんだと思います。そうして見ると日本なんてそのとば口にも立ってないから、我々は、全然耐えられないんじゃないかという気がします。

森本:でも、これまではそれで曲がりなりにもやってこられて、あんまり問題視してなかったんでしょうね。

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/022600179/?P=3

小田嶋:寛容を、我々は感情とか作法の問題としてだけしか考えてなくて、論として突き詰めていないでしょう。寛容な人、と言われたら、いい人で、立派な人。寛容じゃない人はだめな人で、心の狭い人だという以上の理解というのは取りあえず持ってないわけだよね。これからはもしかしたら、理屈を言わなきゃいけないのかなと思って。とても面倒くさいことのとば口に立たせてもらいました。面白いけれどすごく考えさせられる本ですよ、頭を使わせられる本ですよ。

森本:少なくとも現実の「他人への寛容」の問題を「この本、1冊で見事に解決」みたいなことを書かれると、え、ちょっと待ってくれよ、そんなことできないよって自分でも思います。そういう本って一時は売れるだろうけど、すぐに役に立たなくなっちゃうんじゃないかなと。
嫌いな相手だから「寛容」ということを考える

小田嶋:そういうことで、この本は考える材料をたんと与えてくれる本。例えば、気がつきにくいけれど「好きな相手には寛容になんてならない。嫌いだから寛容になるんだ」というのも面白い発見でした。

森本:そう。寛容ということには、不寛容がまずあって、だけどそれを何とか相手を認めたいという気持ちを持つということが寛容なんだから、初めから好きなものには寛容になれないんですよ。だからそういう意味では『不寛容論』という題はなかなか正しいなと思ってね。よく考えると『反知性主義』もそうだし、この1個前に『異端の時代』を書いたときもそうなんだけど、「反」と「異」と「不」とでつながってるんです。「異端」と「正統」も同じ構図です。正統というのはぼんやりしていて見えないんですよ。異端があって初めて正統が見えてくる。

寛容を考えるというのは、「あんたのことは嫌いだけど我慢しよう、でもどうすればいいんだ」という話なんですね。

森本:だから寛容論というのは嫌がられるんですよ。

説教くさいとか言われるし、自分の気持ちをごまかすようでどうにも嘘くさい。

森本:寛容に“扱われる”側も、オマメで入れてやるよ、みたいに言われたら喜ばない。そういうパラドックスがいっぱいあるんですよね、寛容って。

小田嶋:それを「個人の忍耐」で解決しようとするじゃないですか、日本って。「けんか両成敗」って、何がいけないのかというと、どっちが正しいかじゃなくて、理屈でけんかをしている人たちが一番いけないんだと無理やりに表面上仲直りさせてしまうところなんですよ。教室でけんかした子がいたら、どっちが正しい、じゃなくて、けんかした君たちは2人とも立っていなさい、みたいな。

森本:ああ、そういうことか。

小田嶋:となると、何か疑問があったり、納得できないことがあっても、言わないで黙っているやつが一番偉いというところに帰着しがちな感じがする。寛容論って下手すると忍耐の話になるんじゃないか。

森本:ああ、そうね。属人的な心の広さとか、おおらかさとか、そういうので寛容論を論じる人がいるんですよね。その路線もローマ時代以来ずっとあるんだけどね、実は。

小田嶋:それだとやっぱり修身的な話になっちゃうんじゃないかと思うんだけど、中世の「寛容」は、もっと実用的というか、身も蓋もないよね。特に「異端」と「異教徒」の違いがすごく面白かった。


マリサ
記事では、国際基督教大学名誉教授の森本あんり氏の著書について紹介しているんだが、そこでまず興味深いのは、「不寛容から生まれた寛容さ」について書かれている事だぜ。


マリサ
で、面白いのは、「腹を割って話し合えば~」みたいな主張というのは、実際のところ同質の価値観を共有する集団同士でしか通用しない考え方で、これは「寛容さではない」と説明しているんだぜ。


レイム
じゃあ何が「寛容さ」なの?


マリサ
「あんたのことは嫌いだけど我慢しよう、でもどうすればいいんだ」という事の帰結が寛容さであって、両成敗的に安易などっちもどっち論に持っていったり、「心の広さ、おおらかさ」みたいな忍耐論で話すのではなく、問題をはっきりさせてそのうえで異なる意見の話を聞くのが本来の寛容さなんだそうな。


レイム
そこまではわかったけど、それでどう問題と向き合うの?
相手の事を嫌いなんでしょ?


マリサ
それに関しても、このインタビューの後編にヒントがあって

「寛容」とは優しさではない。外部を取り込むための方便だ
日経ビジネス 2021.3.2
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/022600180/

 「人は未知のものには不寛容に、既知のものには寛容になりやすい」と、『不寛容論 アメリカが生んだ「共存」の哲学』の著者、森本あんり先生(国際基督教大学人文科学科教授)は言う。そして、宗教を信じる人は、「多くの宗教に真実がある。だから他人の宗教も(自分の宗教と同様に)尊重せねば」と考えるのだという。

 その実証例が、「燃えるような信仰を持つピューリタンと言えるが、そうであるからこそ異端や異教には徹底して寛容を貫いた」ロジャー・ウィリアムズ(1603年ごろ~1683年)。自らの信仰に忠実なあまり、母国である英国を離れて米国へ渡り、上司や恩師といえど「違う」と思えば容赦なく攻撃する「ザ・空気を読まない男」。

 その一方で彼は、先住民から正式に土地の利用を認めてもらうべく、その社会に溶け込み、彼らの信頼を得て、ついには正式の契約も結んでしまう。口だけではなく、本気で「異質な隣人」への寛容を貫いてしまった男なのだった。

 「その内側の倫理を探ることで、われわれは容易に不寛容に転ずることのない『筋金入りの寛容』とはどんなものであるかを知ることができる」(『不寛容論』、11ページ)

 自分と「異質」と感じたもの、「不愉快な隣人」に対して、人はどのように振る舞うべきかを、ロジャーから学ぶことが果たしてできるのか。森本先生と高校時代の級友である、当日経ビジネス電子版の長寿人気連載の著者、小田嶋隆氏との対談でお送りします。(司会:編集Y)

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/022600180/?P=2

森本:そうだろうね、だってそうじゃなきゃ宗教戦争って言わないもんね。でもそういうことを勉強している人はみんな知っています。

じゃあ、十字軍とかも別の理由があったということですか。

森本:それは金ですよ、もちろん。

聖地回復じゃないんですか、エルサレム

森本:聖地というのは全部、利権に関係していますから。場所です、土地です。

新潮社・三辺直太氏:横から失礼します。『【中東大混迷を解く】シーア派スンニ派 』(池内 恵著、新潮選書) という本で、別にシーア派スンニ派は教義が対立して殺し合っているんじゃないというお話が載っています。要するに「後付け」という。

全然知らなかったな。

小田嶋:そう思っている人は結構多いですよね。

森本:日本が行った大東亜戦争も、帝国主義的な利権争いがベースですけど、神国日本のためと言って、鳥居をアジアのあちこちに建てました。そういう意味からは、これも宗教戦争と言えますよね。

 戦争のときに、愛国心を鼓舞するために宗教を使うというのは、いわば常道。米国の南北戦争なんかもまったくそれです。面白いのは、どっちもアメリカ国民で、どっちもほとんどプロテスタントで、同じ神にお祈りしているんですよ。どっちも同じ神様に「我々を勝たせてください」ってお祈りをして、両方とも成就するはずがない、というのがリンカーンの有名な演説の内容です(第2期大統領就任演説)。
誰も「譲れないもの」がないから回る社会

この本を読んでいて、主役である熱い熱いピューリタン、ロジャー・ウィリアムズさんがなぜ、先住民に対して「寛容」を貫こうとしたか。それは「自分にとって命より大事なものは信仰である。だから、他人にもそういう命より大事なものがあるはずだ。自分のと同じように、大切にせねばならない」という思いがあったからではないか。そう森本先生は述べておられます(136、267、282ページなど)。

森本:そうですね。

「これだけは俺は曲げられないんだ」みたいなものがあるからこそ、「そういう曲げられないものが、おまえにもあるんだろう」という話になって、じゃあ、どう共存させるのよということで、理屈をこね始める。それが「寛容」のロジックにつながっていく。

 で、ちょっと気がついてしまったんですが、我々の慣れ親しんだ、さっき出てきた事大主義(長いものに巻かれろ、的思考。前回参照)って、ロジャーさんの信仰のような「世の中が全部否定しても、俺はこれを手放さないんだ」みたいな大事なものを、我々の誰一人として持ってないから成り立っているんじゃないの、みたいな。

森本:そうでしょうね。

あ、そうなんですか(笑)。

小田嶋:そうでしょう。というか、日本のような同質性の高い社会の中での身の処し方と、植民が始まった米国のような、すごく異質な人間ががしゃがしゃいる中での身の処し方ってたぶん違うわけで、日本みたいな8割方同じような人たちが暮らしている、似たような考えの人たちが暮らしている中では、事大主義というのか、あるいは同調圧力というのか、つまりはみんなと同じに振る舞っておくのが安全策なわけだけど、米国ではそうはいかなかったし、日本だってもうきっとそれだけではやっていけなくなってくる。

森本:自分が持っている大事なものがあったとして、でも、それは相手によって半分ぐらいにしてもいいやと思っている。だから、同じように相手にも「大事なのは分かるけれど、そうは言ってもこっちも譲るんだから、あんたも半分は我慢しなさいよ」みたいなことをすっと口に出せる。

値切りにかかるわけですね。

森本:うん。

ああ、それは分かりますね。でも、それが文字通り「命より大事」だと思っている相手も世界にはたくさんいるし、もしくは、これから日本にも増えてくるわけで。まさに「寛容」を考えないと、うっかり値切って本気で怒られて……。

森本:ロジャー・ウィリアムズは絶対自分では曲げられないと信じているから、たぶん相手もきっと曲げられないだろうなと思って、じゃあ、どうしましょうかという話になったわけでしょうね。

小田嶋:寛容というものは、たぶん我々にとっても、誰にとっても同じなんだろうけど、面倒くさいものなわけですよ、ツールとして寛容を持ち出さなきゃいけない事態、ということは、異なる価値観を持った人たちと付き合う場合がほとんどだろうから、なるべくだったら使いたくないわけですよ。

 身内の間では、寛容じゃなくて、もっと生のぶつかり合いでもって暮らしているわけだから、寛容を持ち出さなきゃいけないということ自体が、そもそも疲れる。だから、普段は楽に暮らしている私たちは、異文化との接触そのものを嫌がると。

分かります。そこに何かロジャー・ウィリアムズから学べる突破口がないか、という話になるわけですが……。

https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00087/022600180/?P=3

ロジャー・ウィリアムズが見いだした道

小田嶋:最後の方に出てきて、これもちょっと不思議だなと思ったんだけど、お互いに譲れない価値観がぶつかる際に、ウィリアムズという人は「礼節」を持ち込むことで対処しようとしたわけですね。

森本:そうです。それを私としては強調したい。

小田嶋:一回りして、人間関係の入り口に戻る、みたいな感じになっていますよね。

森本:うん。やっぱり相手のことを認められない、認めたくないというか、嫌いというか。そういう感情が前提にあった上でなお、礼節は保つ。誰かを否定する際にも礼儀と礼節。これも本に書きましたが、ロジャー・ウィリアムズは決して「みんな違って、みんないい」と思っていたわけじゃないと思うんだよね。違いは認めるけれど、好き嫌いは別だし、言いたいことも言う。

「おまえは間違っている」と正面から理屈で殴り掛かってくる人ですよね。

森本:空気は読まない、議論は徹底的で、相手の立場やメンツにも顧慮しない。だけど礼儀、礼節の一線は守った。相手にもそれは期待した。そういう意味では、「寛容」は最低限の礼節、という言い方もできるのかもしれない。

小田嶋:それを彼はどこから学んだんだろうか。

森本:ウィリアムズはそれを先住民から学んでいるんですよ。僕、そこはなかなか面白いなと思うんだな。

 彼は先住民のやっていることを一から十まで褒めたたえたわけではないし、書いた本の中でいろいろ批判もしている。だけど、彼らの生活基盤を脅かしたり、宗教儀式を邪魔したりすることは一切していない。ロジャーの信念と、率直な物言いと最低限の礼節が、かえって先住民に気に入られて、彼らの信頼を勝ち得て、土地を譲ってもらえたりもした。

「俺に大事なものがあるように、おまえらにもあるんだろう」という信念と、最低限の礼節。それがあれば17世紀の、アメリカ大陸の先住民と、英国育ちのピューリタンとの間にも、ちゃんとした関係性が成立した、というのは、この本が見せてくれる大きな救いでもありますね。

森本:まあ、そこまではよかったんだけど、ロジャーはさらに「先住民の方がよっぽどキリスト教的だ」という本まで書いてしまうから同胞から嫌われるわけで……。「ロジャーさん、もうちょっと社会性を身に付けた方がいいですよ」と、僕ですら言いたくなってしまう。

小田嶋:でも、社会性ももちろん大事だけど、この人みたいに「自分が大事と思うもの」をがっちりつかまえていることが、他人に寛容になるためには欠かせない、ってことにならないのかな。

そう言われると、やはり「事大主義」のままでいいのかな、と思いますね。
寛容は「自分が大事なものは何なのか」から始まる

森本:日本全体として見ると、国際社会の中で日本は戦争を経て生まれ変わって、西側社会の一員に迎え入れられて、そのまま優等生になったわけだよね。まじめにアメリカさんの言うことを聞いていい子に育ってきた。

 そういう、自分の在り方を半分売り払って優等生であり続けた結果、今、「自分たちの達成すべき目標って何だろう」と分からなくなっちゃって、虚無感にとらわれている。これは個人に置き換えれば、組織の空気に身を委ね続けてきたけれど、定年を前にこの先どうしましょう、と考えているようなもので。

まさしく今の自分です。どうしたらいいんでしょうね。

森本:自分たちが本来求めていた幸福の在り方は、やっぱり自分たちで求めるしかない。人の尺度の優等生であり続けると、知らない間になくなっちゃうんだよ、その目的が。

 面白いのは、アメリカ合衆国の独立宣言と日本の憲法がまったく同じ言葉遣いをしているところ。「生命・自由・幸福の追求」という3つのセットのうち、幸福だけは「追求」する権利で、幸福そのものの権利を保障していない。それはやっぱり幸福の中身が人によってさまざまだからでしょう。

そうなると自分は何をしたいんだろうということを本気で考えないといけない。

森本:誰かに自分の価値観を任せていてはいけない。それが宗教である必要はもちろんないけれど。やっぱり自分たちで育てていかないと。その先に、面倒な他者との交渉や礼節が待っていたとしても、ですね。

小田嶋:寛容への道もその先に見えてくるのかもしれないね。


マリサ
記事ではまず、「これだけは俺は曲げられないんだ」「そういう曲げられないものが、おまえにもあるんだろう」という事から始まって、そこに色々と理屈をこねて共存させていくのが寛容さのロジックとしているぜ。


マリサ
で、面白いのはここからで、細部は違うけどこの20年くらいで韓国ウォッチャー達が出した結論と、森本氏が語っている「不寛容から始まる寛容」の考え方がかなり似ている事なんだぜ。


マリサ
記事で森本氏はロジャー・ウィリアムスという神学者アメリカ移民の例をこう書いているぜ「空気は読まない、議論は徹底的で、相手の立場やメンツにも顧慮しない。だけど礼儀、礼節の一線は守った。相手にもそれは期待した。そういう意味では、「寛容」は最低限の礼節、という言い方もできるのかもしれない」とな。


レイム
それって要するに、相手の考え方そのものにはケチを付けないし、否定もしないけど、「あなた達の考え方はそうだとして、自分の考え方ややり方は違う」と明言し、違いや「住み分け」「自分達の譲れない部分」をはっきりさせるって事よね。


マリサ
でだ、そのうえでここからはうp主の解釈なんだが、これを具体的にどう成り立たせるかを考えたときに出た結論は、相手が自分の意見を言う事は認めるし、こちらもその意見を聞く、正しそれに納得できなければ反論をする、「なぜその意見が正しいのか」の説明も徹底的に求める、自分自身も「持論がなぜ正しいか」を具体的に説明する、それこそが現代における「礼節の一線」ではないかとな。


レイム
まあ要するに、これリベラルというよりリベラルの考え方の基盤にある「寛容さとは何か」についての話よね。


マリサ
そうだぜ。
そもそもうp主は別にリベラルではないけど、実はこの考え方に近い寛容さやリベラルの定義を10年ちょっと前に知ってな、「なんだ、これそのまんま日韓翻訳掲示板で日本人がやってきた事じゃないか」「結局、異なる相手への対応の仕方はこれしかないんだな」となったわけだぜ。


レイム
つまり、リベラルにおける「寛容さ」とは相手の意見を受け入れる事ではなくて、相手の意見を「頭ごなしに否定せず聞くこと」というわけね。


マリサ
そう、それを否定するか肯定するかはまた別の問題なんだぜ。


寛容さの誤用


レイム
そうなってくると、日本における「リベラル」という存在に違和感しかなくなるわね。


マリサ
そうなんだぜ。
元々アメリカでリベラルが受け入れられた背景には、新たに移民がやってくるたびに社会的な対立や葛藤が起きてまとまらないので、「まず相手の話を聞こう」という所を出発点として、価値観の異なる相手にも「対等の発言の機会を作る」という社会風土が出来上がったからだぜ。


マリサ
まあ要するにどうにもならない事に対する妥協案というか折衝案というか、そういうものの産物だな。


レイム
つまり、それを受け入れるかどうかは別として、まず「意見する事」を誰にでも等しく保証するという事ね。


マリサ
そう、重要なのは意見する権利は保証されているが、その意見を広く受け入れさせられるかどうかはあくまで「意見を表明する側」の実力と内容次第で、そこは保証の範囲外というわけだ。


レイム
まあ、「価値観の異なる相手」との関係を成り立たせるにはそれしかないのだろうけど、日本でリベラルを名乗る人たちが勘違いしているのがここよね。


マリサ
そうだぜ。
そもそも、少数派や弱者であるからと常に「正しい」わけではないし、それをしてしまったら単にマジョリティーとマイノリティーの立場が逆転する「下剋上」が起きるだけで、社会的な葛藤や対立の解消にはつながらないしな。


レイム
だからまずは「相手がどんな考えを持ち、どんな主張をしているのか」を、頭ごなしに否定せず「聞く」という「礼節」が必要なわけね。


マリサ
じゃあそれを日本でリベラルと名乗っている人達ができているかという事なんだが、まず現物を見てくれ。

徴用解決法は「植民地違法 - 賠償放棄論」
韓国日報(韓国語) 2022.09.21
https://www.hankookilbo.com/News/Read/A2022092010580000364

1910年条約は無効というハルキ解釈
解い代位弁済法は成功諮問が難しく
強制執行認める「プランB」準備しなければならない

先週、北東アジア歴史財団(イ・ヨンホ理事長)が主催したセミナーで興味深い主張が提起された。和田春樹教授は「1910年、併合条約の締結は条約締結の資格がない者同士で結んだ演劇だった」とし、「併合が韓国側の希望と要請に応じた形式を借りたが、本質を見ると条約としては無効(nullとvoid)、宣伝用の文書に過ぎない」と主張した。したがって「韓国兵弾は「併合条約」ではなく、日本軍の力を借りて天皇の勅書で宣言されたものと見なければならない」と主張した。

また、彼は1965年の韓日基本条約第2条の救助薬無効条項で、日本が「すでに(already)」に対する時点を1948年韓国政府樹立後と解釈して植民支配を正当化しているが、「すでに」という副詞の挿入に相関無く「この解釈は本質的に成立しない」とし「こうした理解をもとに韓日関係を作っていかなければならない」とした。併合条約が欺瞞と強迫によってなされたものなので無効であり不法という解釈は従来も議論されてきたが、日本政府が時点にかかわらず併合条約が無効だと合意した点を挙げ、日本が論理的矛盾に陥っていると指摘したのは非常に鋭い解釈と思う。

植民地支配が違法で無効に基づくものだという主張は歴史学研究の結果だが、それに基づいて日本が何をしなければならないのか、韓国が日本に何を要求するかという戦略及び政策論の問題だ。韓国政府は不法無効論の立場に立って、1965年の韓日基本条約を締結した。請求権協定で日本で無償、有償の資金を受けたが、政府はこの資金の名目を受け入れなければならない補償及び賠償として説明した。歴代日本政府は植民支配に対して道義的謝罪論を表明してきた。つまり、細川森広、村山富一、関直人に至るまで、日本は痛絶したりんご、反省の立場を明らかにした。これに反発した右派勢力は「妄言」をして反動的な動きを見せた。今でも歴史修正主義者たちは、道義的謝罪論を覆す試みをしている。

韓国政府は2005年「民館委員会」を通じて植民地補償問題と関連した立場整理を試みた。慰安婦、原爆被害者、サハリン同胞問題などについては日本政府に法的責任が残り、強制動員などその他の事案については請求権協定で解決されたとみなした。しかし、2011年慰安婦問題に関する憲法裁判所の「不作為違憲判決」と2012年と2018年に最高裁判所の徴用賠償判決が出た。以後、韓国政府は司法部の判決と履行過程を理由に挙げ、補償、賠償に関する公式立場表明を控えてきた。

現在、韓国政府は徴用被害者と加害企業及び日本政府との交渉を通じて「基金」という器を作り、「代位弁済」による解法を追求しようと努力している(プランA)。しかし、これは成功を壮大にするのは難しい。合意到達が難しく、政府の意思にかかわらず現金化が進むことができるからだ。したがって、裁判所の判決で現金化がなされても、日本と極端な対立を防ぐための措置が講じられなければならない(プラB)と筆者は考える。つまり、現金化で日本企業の財政的損失が発生した場合、「基金」や「立法」を通じてこれを保全してくれることを約束すればよいだろう。いずれの場合も、韓国政府が植民支配に関連してこれ以上の対日賠償、補償を追及しないという前提に立っている。第二次世界大戦後、中国は対日戦争賠償を一切放棄し、「李徳保院」を掲げた。次第に韓国政府は植民支配関連の補償、賠償を永久放棄するという明確な立場を公式表明してほしい。

マリサ
この記事の前半で東大名誉教授の和田春樹氏らの主張として、「1910年、併合条約の締結は条約締結の資格がない者同士で結んだ演劇だった」「併合が韓国側の希望と要請に応じた形式を借りたが、本質を見ると条約としては無効、宣伝用の文書に過ぎない」と書いているぜ。


レイム
あれ、これって…。


マリサ
過去動画「日韓併合はなぜ合法?」でレイムが説明していたが、2001年にハーバード大学主催で行われた国際学術会議で、韓国側が違法論の主軸として主張し、「違法を判断するに足る法を発見するのは困難」として否定された内容だぜ。


レイム
つまり、和田春樹氏らは20年以上も前に否定されている論を、反対意見を無視して主張し続けているというわけね。


マリサ
そうなるぜ。
そして次の事例では

天声人語
朝日新聞 2013年 9月 24 日
https://web.archive.org/web/20130924053453/http://www.asahi.com/paper/column.html

だれかの人柄を言いあらわすときに、リベラルという言葉を使う場合がある。あの人はリベラルだ、というように。具体的にどんな人かは必ずしも一様ではない。自由を大切にする人、穏やかで公平な人……▼政治の世界でもある種のシンボルとして使われてきた。保守陣営の向こうを張るリベラル勢力の結集を、といった具合だが、その中身についての腑(ふ)に落ちる説明はなかなか聞けない。言葉の意味を定めかねるうち立ち消えになってしまう▼それが何であるかは言いにくくても、何でないかなら言える場合がある。在日の人々に向けられるヘイトスピーチ(憎悪表現)がリベラルな考えに相反することは明らかだろう。あの敵意と排外主義はおよそ人々の自由の尊重から遠い▼もう憎しみをあおるのはやめよう。そんなデモがおととい、行われた。「差別撤廃 東京大行進」である。むき出しの民族蔑視に反対する約1200人が新宿の街を歩いた。性的少数者や障害者らへの差別もなくしていこうと訴えた▼自分とは異質な存在を受け入れ、尊ぶ。寛容こそ、リベラルの核心のひとつだろう。日本は単一民族社会でもなければ一億一心の国でもない。〈我々はもう既に一緒に生きている〉。大行進が掲げたテーマに、その通りだとうなずく▼思想史家の武田清子さんによれば、リベラルは〈生活感情や心情としても日常生活のふところの深みに育てられていなくてはならない〉。言葉遊びでなく、実践を通じてわがものにしたい。


マリサ
2013年の朝日新聞天声人語で、「自分とは異質な存在を受け入れ、尊ぶ。寛容こそ、リベラルの核心のひとつだろう」とか書いているが、それはこれまで説明してきたようにリベラルではないぜ。


レイム
そうね、異論を認め対等な議論の場に持ち込むことを保証するのが本来の寛容さなのに、そもそもその意見が正しいかどうかを飛び越して「受け入れる」では、新たな社会的葛藤や対立を生む原因になるだけだしね。


マリサ
そう、そこが問題でな、これは慰安婦問題とかでも言える事だが、過去動画「朝日新聞慰安婦報道検証」で説明したように、リベラルを名乗る人たちは証言が正しいという前提で彼らを「弱者」と認定し、「受け入れるべき存在」としているが、実際にはその肝心の証言が矛盾だらけなうえに、異論の存在自体を「無かったこと」にしてごり押そうとしたわけだ。


レイム
つまり、リベラルとしての寛容さを著しく欠く、矛盾した言動を行っているというわけね。


マリサ
そしてその矛盾を解消するために彼らがとった態度が、「論点をイデオロギー問題にすり替える」という手法なんだぜ。


レイム
つまり、一次資料との整合性や証言自体の矛盾を指摘しているのに、それを「ネトウヨが罪を認めず過去を美化している」とやって論点をすり替えることで、矛盾を表面的に無かったことにしたわけね。


マリサ
これで自称リベラルの問題も、なぜ彼らが韓国の側に立つのかも大体わかったはずだぜ。
彼らはリベラルの寛容さを、「弱者や少数派の意見を受け入れる」と勘違いした結果、本来対立や葛藤を解消するための生活の知恵として出来上がった概念を、弱者や少数派が問答無用で下克上をする概念にしてしまい、社会的葛藤や対立をむしろ増大させたというわけだぜ。


保守という勘違い


レイム
リベラルの件はわかったけど、なんでそこから保守の問題になるの?


マリサ
これがまた複雑でな、以前から説明しているように、現状本当に「保守」をやっている人なんてほとんどいないんだぜ。


レイム
というと?


マリサ
元々保守と革新とか右派と左派という概念は18世紀のフランスに端を発する政治思想だが、当たり前といえば当たり前だが当時の概念が現在も通じるわけではないぜ。
それどころか、本来この概念自体が非常に曖昧で相対的なものだぜ。


マリサ
そして現在はどうかといえば、たとえば左派は合理的で論理的な言論を好むのに対し、右派は「人間の感情、伝統」などの非理性的な情緒的部分を重視するという考え方があるが、じゃあさっき引用した日韓併合の事例や慰安婦問題の事例でその構図が成り立つか?って事だぜ。


レイム
ああ、成り立たないわね。
対立構造の相手である左派を自称リベラルとしてみた場合、むしろ逆に自称リベラル側の方が情緒的な考え方をして、「持論がなぜ正しいのか」の説明を放棄しているし。
でも同時に、保守を名乗る人たちの中にも同様に「持論がなぜ正しいのか」の説明を放棄している人達がいるのよね。


マリサ
一般論として、現状の日本ではリベラルとは本来の左派よりもマイルドな左派的思想の人々と定義もされ、相対的な保守との対立構造として説明される場合が多いから、それを土台に考えた場合でも、実際にはその分類の対立構造自体がレイムが言ったように現状成り立っていないんだぜ。


マリサ
もっと言えば、たとえばこれも一般的な分類法として、「保守は国の秩序や愛国心、自己責任を重視する」のに対し、リベラルは「個人の権利や多様な価値観を尊重し、共助、共生などの助け合いを大事にする」というのもあるが、これも自称リベラルに寛容さと下克上の区別がついていない事から、対立軸として成り立っていないぜ。


レイム
じゃあ結局今の保守とリベラルって何なの?


マリサ
そのヒントがこの記事にあるぜ。

カズオ・イシグロの警告が理解できない、リベラルの限界
現代ビジネス 2021.03.22
https://gendai.media/articles/-/81427

彼らはなぜ「格差」を無視し続けるのか

「横」を見るだけでは不十分

2017年にノーベル文学賞を受賞した小説家カズオ・イシグロ氏の、あるインタビューが各所で大きな話題になった。

そのインタビューが多くの人から注目されたのはほかでもない――「リベラル」を標榜する人びとが自分たちのイデオロギーを教条的に絶対正義とみなし、また自身の感情的・認知的好悪と社会的正義/不正義を疑いもなくイコールで結びつける風潮の高まりに対して、自身もリベラリズムを擁護する立場であるイシグロ氏自身が、批判的なまなざしを向けていることを明言する内容となっていたからだ。

〈俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていないのです。

私は最近妻とよく、地域を超える「横の旅行」ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要なのではないか、と話しています。自分の近くに住んでいる人でさえ、私とはまったく違う世界に住んでいることがあり、そういう人たちのことこそ知るべきなのです。(中略)

小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。リベラル側の人たちはこれまでも本や芸術などを通じて主張を行ってきましたが、そうでない人たちが同じようにすることは、多くの人にとって不快なものかもしれません。

しかし、私たちにはリベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です。つまり多様性ということです。これは、さまざまな民族的バックグラウンドを持つ人がそれぞれの経験を語るという意味の多様性ではなく、例えばトランプ支持者やブレグジットを選んだ人の世界を誠実に、そして正確に語るといった多様性です〉(2021年3月4日、東洋経済オンライン『カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ』より引用)

平時には多様性の尊さや重要性を謳っているはずのリベラリストたちが、他者に向けて画一的な価値体系への同調圧力を向けていること、彼・彼女らと政治的・道徳的価値観を異にする者の言論・表現活動に対して「政治的ただしさ」を背景にした攻撃的で排他的な言動をとっていることなど、まさしく現代のリベラリストや人文学者たちが陥っている自己矛盾を、イシグロ氏は端的に指摘している。

https://gendai.media/articles/-/81427?page=2

イシグロ氏の指摘は、私自身がこの「現代ビジネス」を含め各所で幾度となく述べてきたこととほとんど差異はなく、個人的には新味を感じない。しかしながら、こうした「政治的にただしくない」主張を私のような末席の文筆業者がするのではなく、世界に冠たるノーベル文学賞受賞者がすることにこそ大きな意味があるのだ。

――案の定というべきか、イシグロ氏に「批判を受けた」と感じた人びとからは、氏の主張に対して落胆や反発の声が多くあがっているばかりか、中には「どうして自分たちにこのような批判が向けられているのかまるで理解できない」といった人もいるようだ。彼らはまさか自分たちがそのような「不寛容で排他的で、強い同調圧力を発揮している先鋭化集団」などと批判されるとは夢にも思わなかったらしい。
同調しない者は「抹消」してもいいのか

「芸術・エンタテインメントの世界が、リベラル以外の声を反映することをできないでいる」というイシグロ氏の指摘はきわめて重要で、本質的であるだろう。

というのも、昨今における芸術・エンタテインメントの領域では、いままさにリベラリズムにその端緒を持つ社会正義運動「ポリティカル・コレクトネス」と「フェミニズム」と「キャンセル・カルチャー」が猖獗をきわめており、それらのイデオロギーに沿わないものを片っ端からバッシングして排除し、不可視化することに勤しんでいる最中だからだ。

彼らは、自分たちの世界観や価値体系にリベラル以外の声を反映するどころか、リベラル以外の価値観に基づく表現や存在そのものを、現在のみならず過去に遡ってまで抹殺しようとしている。

こうした同調圧力は、芸術やエンタテインメントのみならず、学術の世界――とりわけ人文学――でも顕著にみられる。学問の名を借りながら、実際にはラディカル・レフトの政治的主張を展開する人びとにとって、自分たちのイデオロギーに同調しない者などあってはならない。ましてや批判や抗議の声を上げようものなら、「社会正義に反する者」として徹底的に糾弾され、業界からの「追放」を求められることも珍しくはない。

https://gendai.media/articles/-/81427?page=3

リベラリストが語る「多様性」の一員とみなされ包摂されるのは、あくまでそのイデオロギーを受け入れ、これにはっきりと恭順の姿勢を示し、信奉していると表明した者だけだ。それ以外は「多様性」のメンバーの範疇ではなく、埒外の存在としてみなされる。

リベラリストが考える「多様性」に含まれないものは、社会的に寛容に扱われる必要もないし、内容によっては自由を享受することも許されるべきではない――それが彼らのロジックである。今日のリベラリストは「多様性」や「反差別」を謳うが、その実自身のイデオロギーを受け入れない者を多様性の枠組みから排除する口実や、特定の者を排除しても「差別に当たらない」と正当化するためのロジックを磨き上げることばかりにご執心のようだ。

「累積的な抑圧経験」「性的まなざし」「寛容のパラドックス」「マンスプレイニング」「トーンポリシング」などはその典型例だ。自分たちの独自裁量でもって「加害者」「差別者」「抑圧者」などと認定した者であれば、その対象に対する攻撃や排除は、自由の侵害や差別や疎外にあたらず、一切が正当化されるというのが彼らの主張である。

いち表現者として、またひとりのリベラリストとして、こうした風潮をイシグロ氏が憂慮するのはもっともだ。リベラル(自由主義)を標榜する人びとが、その実「リベラリズムイデオロギーに賛同する芸術・エンタテインメント」以外を許容しない――イシグロ氏は自身も激しい反発にさらされるリスクを承知していながら、それでもなお、そうした形容矛盾とも言える状況を批判せずにいられなかったのだろう。

https://gendai.media/articles/-/81427?page=4

インテリの傲慢こそ「分断」の正体

リベラリストや人文学者のいう「多様性」「寛容性」「政治的ただしさ」など、局地的にしか通用しない虚妄にすぎない。それらは結局のところ、自分たちと政治的・経済的・社会的な水準がほとんど同じ人びとによって共有されることを前提にした規範にすぎないからだ。

つまりそれは、人間社会におけるヒエラルキーの階層を水平に切り取った――言い換えれば、経済力や社会的地位などが同質化された――いわば「横軸の多様性(イシグロ氏のいうところの《横の旅行》)」でしかない。

自分たちと同じような経済的・社会的ステータスをもつ人びとの間だけで、自分たちに都合の良いイデオロギーを拡大させていったところで、全社会的な融和や和解など起きるはずはない。むろん世界はいまより良くもならない。むしろさらに軋轢と分断を拡大させるだけだ。いまこの世界に顕在化する「分断」は、政治的・経済的・社会的レベルの異なる人びとの間にある格差によって生じる「縦軸の多様性《縦の旅行》」が無視されているからこそ起こっている。インテリでリベラルなエリートたちが、「横軸の多様性」をやたらに礼賛する一方で、この「縦軸の多様性」には見て見ぬふりを続けていることが、この「分断」をますます悪化させている。

金持ちで、実家も太く、高学歴インテリで、もちろん思想はリベラルで、つねに最新バージョンの人権感覚に「アップデート」し続ける人びとが、ポリティカル・コレクトネスやSDGsといった概念を称揚し、経済的豊かさや社会的地位だけでなく、ついには「社会的・道徳的・政治的ただしさ」までも独占するようになった。その過程で彼らは、知性でも経済力でも自分たちに劣る人びとを「愚かで貧しく人権意識のアップデートも遅れている未開の人びと」として糾弾したり嘲笑してきたりしてきた。その傲慢に対する怒りや反動が、いま「分断」と呼ばれるものの正体である。

https://gendai.media/articles/-/81427?page=5

「偏狭で、差別主義的で、知的に劣っていて、非科学的で、人権感覚の遅れた人びとが『分断』の原因である(そして我々はそのような連中を糾弾する正義の側である)」――という、リベラリストが論をまたずに自明としている奢り高ぶりこそが、世界に「分断」をもたらす根源となっている。この点を、自身もまたインテリ・リベラル・エリートの一員でありながら指摘したイシグロ氏の言葉には大きな意味があるが、しかし残念ながら肝心の「リベラリスト」の大半には届かないだろう。
イシグロ氏の限界

――だが、イシグロ氏のこうした言明にも、やはり限界が見える。というのも、氏にはいまだに「歴史のただしい側」に立つことへの未練があるように思えてならないからだ。

たしかに、現状のリベラルの問題点を殊勝に列挙してはいるものの、しかし「リベラリズムがただしいことには疑いの余地もない」というコンテクストそれ自体を批判することはできないままなのである。冒頭で引用したインタビュー内の言明でも、あくまで「リベラリズムのただしさ」は自明としたうえで「リベラル派も(よりよいリベラルを目指すために)反省するべき点がある」と述べるにとどまっている。

ようするに、「私たちが知的にも道徳的にも政治的にもすぐれており、なおかつ『歴史のただしい側』に立っていることは明らかだ。だが、前提として間違っている彼らの側にも、一定の『言い分』があることを、我々はもっと寛容に想像しなければならないのではないか」というスタンスを取るのが、やはりノーベル文学賞受賞者という西欧文明の価値体系のど真ん中にいる人物にとって、踏み込めるぎりぎりのラインなのだろう。それを非難するつもりはない。これ以上攻めると、イシグロ氏自身も当世流行の「キャンセル・カルチャー」の餌食となってしまいかねない。氏にもまだまだ生活や人生がある。ためらって当然だ。

https://gendai.media/articles/-/81427?page=6

しかしながら「まず前提として私たちリベラルはただしい。だが、間違っている愚かで遅れた彼らにも、まずは居場所を与えてやろう。そして、彼らにも勉強させる(≒私たちのただしさを納得させる)ことが必要だ」という傲慢で侮蔑的なコンテクストこそが、アメリカではトランプとその支持者を、ヨーロッパでは極右政党を台頭させる最大の原因のひとつとなったのではないか。このコンテクスト自体を批判的に再評価することなく、いま世界中で顕在化している「分断」を癒すことなどできない。

私たちの主張をよく勉強して理解すれば、いずれは彼らも自らの間違いを認めて、世界はきっとよくなる――という善悪二元論的で、単純明快な勧善懲悪の物語を信じてやまないがゆえに、リベラリストの問題意識はいつだって的外れなのだ。

「ひょっとして、自分たちも、世界に分断や憎悪をもたらす『間違い』の一員なのではないか」という内省的な考えを――イシグロ氏ほどでなくともよいから――持つようになれば、彼らの望みどおり、世界はいまよりずっとよくなるのだが。


マリサ
記事ではこの動画とは別の切り口で、カズオイシグロ氏の事例を紹介しながら、リベラルについて「自分たちと同じような経済的・社会的ステータスをもつ人びとの間だけで、自分たちに都合の良いイデオロギーを拡大させていった」としていて、要するに自分達の常識を上から目線で他の階層にごり押そうとしたと書いているぜ。


マリサ
ただ実態としての日本で起きている問題は、今回説明したように少し違って、社会階層というよりエコーチェンバーの内と外の問題で、「リベラルを名乗る人たち」が内側で醸造したローカルな「寛容さ」を、外の世界でごり押したのが原因だぜ。


マリサ
その押し付けがもっとも顕著に表れたのが日韓問題で、矛盾を指摘されてもそれを「イデオロギー問題」にすり替え、持論をごり押した結果、その反発として生まれた集団のうちの一部が保守と名乗ったというだけなんだぜ。


レイム
そしてその中で、その反感を爆発させて過激な言動に走る人が現れたと。


マリサ
もちろん、そうした行いを容認したり肯定したりするつもりは一切ないが、結局のところ自称リベラルの人達が寛容さを勘違いして矛盾を引き起こした結果生まれた対立軸が、今現在保守を名乗る人たちなんだぜ。


レイム
この考え方だと、日本には実際には保守もリベラルも殆どいないって事にならない?


マリサ
実際その通りなんだぜ。
今現在日本は、自分達をリベラルと勘違いした、なんとなくふわっとした共通認識で集まっているだけの謎集団と、その集団が引き起こした矛盾に反発する「玉石混交の雑多な人達」がいるだけなんだぜ。

今回のまとめ

・リベラルの寛容さとは本来「意見する事」の保証
・日本の自称リベラルは寛容さを勘違いしている
・寛容さを勘違いした弊害が「自称保守」を生み出した

マリサ
ちなみに、この対立軸を生み出すきっかけになったのは2002年の日韓共催サッカーワールドカップだぜ。


レイム
ああ、そういえばあの時、「韓国との友好」を訴えて韓国の引き起こした問題をメディアなどが徹底的に無視して、むしろ批判側を性格破綻者扱いした結果、そこに反発する集団が生まれたのが嫌韓とマスコミ不信の出発点だったわね。


マリサ
当時何があったかは、動画説明欄にある「嫌韓はいつ始まったの?」「マスコミ不信はいつ始まったの?」「国立競技場Public Viewingで何が起きたか」を見てほしいが、これもまさに「寛容」を勘違いし、異論を徹底的に排除した結果なんだぜ。


レイム
そして今現在も、この時と同様の矛盾が起き続けて社会的な葛藤や対立を増大させていると。


マリサ
そういうことだぜ。
なのでこの問題はリベラルと保守の対立という構図ではないし、この「リベラルを名乗る謎集団」が態度を改めない限り問題が解決するわけがないって事だぜ。


レイム
なるほどね。


マリサ
そんなわけで今回の本編はここで終わるぜ。


レイム マリサ
ご視聴ありがとうございました。


大口
おつかれ~


大口
今回は長くなりすぎたのでおまけはないよ。


レイム マリサ 大口
またらいしゅ~




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