さて、本日は別の内容をやる予定だったのですが、昨日記事チェックをしていて興味深い記事を発見したので、予定を変更しそちらについて書きます。
それとこれはよく誤解している人がいるので事前に書いておきますが、韓国のハプキドーは漢字表記が合気道であるため、「合気道の起源を主張している」と勘違いしている人がいますが、実際には合気道の元となった大東流合気柔術の正当後継や起源を自称しているのであって、合気道そのものの起源は主張していません。
ただし、後述しますが合気道創始者である植芝盛平への中傷等が、ハプキドー創設者である崔龍述によって積極的に行われた過去はあります。
韓国では様々な日本文化の起源主張が行われているが、その中でハプキドーによる柔術などへの起源主張は、韓国内で嘘である事が広まった稀有な例であったが、なぜか最近復活の兆しがある。
またこの起源主張が中央日報で行われている事から、過去の大韓剣道会や海東剣道、紙文化財団のように政府への売込みをしている可能性が高く、今後警戒しないといけない。
※一部を除き、引用記事が日本語の場合には文中にリンク用アドレスとタイトルのみ表記、韓国語のものやリンク切れで参照不能な記事のみ文末にまとめて本文を引用します。
※本文中のリンクは引用の元記事、或いはインターネットアーカイブやウェブ魚拓(別サイト)へのリンクです。
1:胡散臭すぎるハプキドー
まずはこちらの記事から
「合気道が日本の武芸? 知る人はそう言わない」
2017年10月24日16時30分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
http://japanese.joins.com/article/734/234734.html
合気道(ハプキド)は韓国で最も大衆的な武術の一つだが、論争が多い。日本武術の合気道(アイキドウ)と漢字が同じであるうえ、合気道(ハプキド)を創始した崔龍述(チェ・ヨンスル)師範(1899-1986)が日本武術である大東流柔術の大家・武田惣角(1859-1943)の弟子だった事実が伝えられ、合気道(ハプキド)が日本のものという認識が広まった。
合気道(ハプキド)関係者が集まって作った団体も大韓合気道協会・大韓気道会・大韓合気道会・韓国合気道連盟などいくつかある。どこが正統性を持つのか分かりにくい。テコンドー・柔道・剣道・空手など他の武術とは違い、大韓体育会会員種目としても登録されていない。合気道(ハプキド)関係者が「嫡統」認定争いをし、一つにまとまらないからだ。崔龍述師範は他界する前にあるインタビューで「合気道(ハプキド)の軸を確立して死ぬことができれば思い残すことはない。道場ごとに技が違い、弟子は数カ月だけ習った後にみんな独立して道場を持つ」と話した。
合気道をはじめとするアジアの武芸を研究する武芸研究家のイ・ホチョル氏(54)は「合気道(ハプキド)に対する冷笑的な非難が残念だ」と話し始めた。イ氏は生涯、合気道(ハプキド)を修練して関連研究活動も併行してきた自他が認める「合気道(ハプキド)博士」だ。実際にイ氏は高麗大で教育学を専攻した後、豪州グリフィス大でスポーツ経営学修士学位を、慶南大でスポーツ教育学博士学位を取得した。イ氏は中学生の時に合気道(ハプキド)に入門し、大学時代から本格的な修練を始めた。剣道など他の武術も経験し、すべて合わせた段数が12段だ。
イ氏は「合気道(ハプキド)は厳格に韓国の文化だが、否定的な観点だけに縛られてその優秀性を看過している」と指摘する。イ氏は先月22日、これまでの研究を基礎に著書『合気道はなぜ韓国武芸か?』(ブックラボ)を出した。「低く評価された合気道(ハプキド)の貢献と潜在性を知らせ、正しい評価を受けるようにしたい」というイ氏に20日に会った。
合気道(ハプキド)をめぐる論争について話すと、イ氏は東南アジアの武術の話を紹介した。「インドネシアとマレーシアには『シラット』という名前が同じ武術がある。両国ともに国技と見なす伝統武芸だ。ところが両国ともに起源に関する問題を提起しない。実際、両国のシラットは少し違う」。同じ漢字名を持つ合気道(ハプキド)と合気道(アイキドウ)も韓日両国の文化の影響を受けて独自の近代武芸として変化・発展したということだ。
崔龍述師範は植芝盛平(1883-1969)とともに武田惣角のもとで大東流柔術を習った。その後、韓国で合気道(ハプキド)を、植芝は日本で合気道(アイキドウ)を創始した。解放後に帰国した崔龍述師範は1951年に大邱(テグ)に道場を建てた後、本格的に合気道(ハプキド)を広め始めた。
合気道(ハプキド)は合気道(アイキドウ)とは違い、蹴りなど打撃術を持つ。山が多い地形のため骨盤が発達して足を使うことを好む韓国の文化が反映された。イ氏は「学界では大東流柔術について三国時代の武芸が日本に転移して長い歳月にわたり実戦武術形態に発展した武術という見解もある」とし「起源論争自体が無意味」と主張した。
「名前を変えようという話もある。合気道(ハプキド)はすでに世界的にも名前が知られていて、起源をめぐる論争をするのは韓国しかないため、改名は敏感な事案だ。名前を突然変えればそれによる混乱も生じる。合気道(アイキドウ)が合気道(ハプキド)の原形だと主張する人の中には、合気道(ハプキド)から派生した新生武術の創始者が時々いる。自分の武術を強調しようとする商業的な態度と無知のために合気道(ハプキド)に対する否定的な見解が増える」。
イ氏は合気道(ハプキド)をめぐる論争より「武道に対する武道人の姿勢が問題だ」と指摘した。自分がしている武道を深く学ぶ態度が必要という主張だ。イ氏は「武術の種目は19世紀後半から分かれた。それ以前は韓日中ともに相撲や手搏という言葉ですべての武術を通称した。このような背景を知らない人たちが合気道(ハプキド)の起源に執着する」と話した。
イ氏は最近人気があるUFCなど格闘技スポーツにも厳しい忠告をした。「単に勝ち負けと技術にこだわれば、武術は低級な身体文化として残るしかない」という批判だ。イ氏は「武道は社会性と人格を育成する生産性価値が必要条件だ。これを知らなければ単に実戦中心の技術に集中する。最近UFCなど刺激的な格闘技スポーツが流行しているが、心配になる理由だ」と説明した。
「UFCのチャンピオンを尊敬するとは聞かない。それに対して武道家は尊敬の対象になる。うまくて実力が優れているからではなく、武道には価値が込められているからだ。技術だけを重視して勝敗を決めることを目的とするのは偏狭な『武侠誌武芸史観』だ。運動をする人は無知だという誤った認識から抜け出すことができない理由でもある。武道が歴史性と価値を認められ、高級文化に発展するためには、武道家が自ら深く勉強して研究しなければいけない。本を書くことになった最も大きな理由はここにある」。
この記事なのですが、「それ以前は韓日中ともに相撲や手搏という言葉ですべての武術を通称した。」とか、「UFCのチャンピオンを尊敬するとは聞かない。それに対して武道家は尊敬の対象になる。」とか、ハプキドー以前に格闘技全般に無知である事がわかります。
また、「崔龍述師範は植芝盛平(1883-1969)とともに武田惣角のもとで大東流柔術を習った。その後、韓国で合気道(ハプキド)を、植芝は日本で合気道(アイキドウ)を創始した。」となっていますが、事の真相は大きく違います。
これに関しては以前も記事にしていますが、このハプキドー創設者である崔龍述の経歴は嘘や矛盾だらけです。
例えば以下の検証のように
ハプキド創始者の謎に満ちた軌跡 2
https://web.archive.org/web/20071124132619/http://www.toshima.ne.jp/~fukuoka3/hapkido/hapkido2.htm
矛盾に満ちた証言
1962年出版「合気術」中の「総裁崔龍述先生修道記」によれば崔龍述の経歴は以下のとおりだ。
「江陵崔氏。1899年7月、忠清北道・黄澗で次男とて生まれる。少年時代両親と親しかった日本人製菓業者・山田大吉に可愛がられる。1908年、製菓業を中断し日本に帰国する際、少年崔龍述を連れて行く。山田氏の故郷、九州・八幡市で少年は望郷の念にかられ帰りたがり、山田夫妻を困らせた。夫妻は元武士であった寺の住職・山本秀雄に崔龍述少年を預け、旅立った。山本と少年には情が通い、山本は少年を養子とした。4年経ち14歳の時、山本の友人であった武田惣角が来訪した。山本は崔龍述を門下に勧めた。武田惣角は崔龍述を含む5人の門下生を連れて新潟県信州市信州山に入り、8年間武術修行をした。大正8年下山、東京日本橋に6年間居住。この間、武田惣角は皇室で大臣たちを教授。以後、武田惣角は全国に巡回。北海道北見沢市虻田村に8ケ月居住。旭川で5年過ごし、合気術を練磨・教授した。小樽市色内町1丁目45で渡辺金太郎が営む旅館で崔龍述は武田惣角に父のように仕え、1943年、武田惣角は高齢と病で重態となり、北見沢市に住む息子に連絡をとった。惣角は虻田村で87歳の生涯を閉じた。崔龍述は韓国へ帰国、1960年3月、大韓合気術武道会と道場に命名し合気術を広め、大韓合気術武道総本部を大邱に置いて全国の合気術道場を統轄した。」
一方、1982年米国でのインタビューでの経歴は以下のとおり
「1904年生まれ。少年時代を忠清道永東で過ごす。日本人の飴屋・森本に誘拐され日本へ連れていかれる。ずっと不平を言って泣いていたので、困った森本は山口県の門司で少年崔龍述を捨てた。言葉もわからないまま大阪まで歩いていった。警官に保護されたが身寄りがないと知ると警官は彼を京都の寺に預けた。住職は渡辺金太郎と言い、そこで2年間暮らした。渡辺は武田惣角と親しく、彼を養子にすることを勧めた。惣角は吉田朝男という日本名を与えた。この時11歳であった。この後、惣角の家と道場があるアケダのシンス山に行き、彼の家で20年を過ごした。28歳の時、惣角や高弟たちとハワイへ行き演武をした。惣角は日本の敗戦を恥じ、自ら食を絶って死んだ。その時、惣角は大東流のすべての技を伝承したのは崔龍述ただ一人であると言い残した。」
1962年の彼の自伝では「1899年生まれ、日本人製菓業者・山田大吉に連れられて日本へやってきた」としていますが、1982年のアメリカでのインタビューでは「1904年生まれ、日本人の飴屋・森本に誘拐され」となっており、生い立ちからして矛盾だらけです。
また、1962年版では「元武士であった寺の住職・山本秀雄に預けられた」としていますが、1982年版では「警官に保護されたが、身寄りがないと知ると警官は彼を京都の寺に預けた。住職は渡辺金太郎と言い」となっており、背景も住職の名前も違います。
更に1962年版では「武田惣角は崔龍述を含む5人の門下生を連れて新潟県信州市信州山に入り、8年間武術修行をした」となっていますが、当たり前のことですが新潟に信州市信州山や1982年版の「アケダのシンス山」などという場所は日本にありません。
それどころか、この修行をしていたという期間(時系列的に1913年頃)、惣角は北海道の湧別で大東流を佐川幸義、堀川幸道、植芝盛平らに教えていた記録があります、この事から少なくともこの期間に崔龍述が惣角の下にいなかったのは確実です。
また、惣角がハワイで演舞をしたとか、皇族の大臣に武術を教えたという記録もありません。
また惣角の死に関しても、彼は1943年に青森県で客死しており、「惣角は日本の敗戦を恥じ、自ら食を絶って死んだ。その時、惣角は大東流のすべての技を伝承したのは崔龍述ただ一人であると言い残した」というエピソードもありえません。
それどころか、崔龍述は惣角の一番弟子であり全ての技を伝授した人物であるとしていますが、惣角の弟子も実質的に大東流を引き継いだ息子の武田宗清も崔龍述の事を「知らない」そうなのです。
一説には、惣角の家の使用人に当時朝鮮人がおり、それが崔龍述ではないかとか、惣角は月謝さえ払えば誰にでも技を教えており、その中に朝鮮人もいた事から直弟子ではなくその中にいたという説、また惣角の弟子の門下生であったという説などがありますがハッキリしません。
更に、記事では「崔龍述師範は植芝盛平(1883-1969)とともに武田惣角のもとで大東流柔術を習った」と、あたかも植芝盛平と同等の門下生であったかのように書かれていますが、先ほど書いたように崔龍述が惣角の直弟子として植芝と共に学んでいた可能性はゼロです。
それどころか、崔龍述は惣角の直弟子として免状をうけ合気道を創設した植芝が相当に邪魔だったようで、以下のようにかなりの誹謗中傷を行っていた背景があります。
[崔龍述と植芝](韓国ホームページからの翻訳文)
http://www.toshima.ne.jp/~fukuoka3/hapkido/choiyonsul_ueshiba.htm
https://web.archive.org/web/20120413232405/http://www.toshima.ne.jp/~fukuoka3/hapkido/choiyonsul_ueshiba.htm
・崔龍述は武田惣角に才能を見出され2人で各地を巡り、1915年に北海道に渡り植芝とであった
・日本の合気道と植芝盛平は惣角との出会いを捏造し、崔龍述の事を完全に削除している
・北海道で武田惣角と崔龍述は犯罪者上がりの労務者たちから喧嘩をふっかけられたが、全て叩きのめし、それを遠くから眺めていたのが植芝だった
・その見事な技に惚れ込んだ植芝が後をつけ2人の宿泊する旅館をつきとめ、技を伝授してもらおうと頼み込んだが惣角に「おまえはおれの武術を学ぶだけの器量ではない」と拒絶された
・その後も植芝は諦めず何度も宿を訪れたが断られ続けた
・大東流の技は門外不出であり、惣角と龍述の鍛錬は外部から見えないよう密閉された道場で行われていたが、植芝はそれを盗み見ていた
・ある日、惣角が留守の時に植芝が道場を訪れ、龍述を騙し高価な高級な和服と履物を贈り技の一部を教えてもらったが、あとに惣角にバレてしまい、「門外不出の技を教えるとは何事か」と激しく叱責され、植芝も呼びつけ「子供をたぶらかして技を盗むとは!」と叱りつけた
・しかし植芝はそれでも諦めず贈り物と金銭攻勢を続け、とうとうある程度の技を教えてもらえるようになった
・ただし、その技の教授法は徹底して、一手いくらという経済的取引として扱われ、 大東流の高級技法は伝授されないまま、惣角の考えで植芝の“格”に合うような技だけを伝えたものだった
・合気道の技の半径が大きく、歩幅が広い回転法を主に駆使するようになったわけはこのような理由からだ
・現在、日本のみならず韓国においても大東流の正統後継者である崔龍述の名前が忘れ去られようとしている、まるで新羅人であり大東流の起源である新羅三郎源義光が忘れ去られたようにだ。
※こちらは私がこのブロマガを始める前に別の場所に書き込んだ要約です。
「自己の正当性を主張するために、他者の劣等性を指摘する」非常に韓国人的な態度を取っていた事が解ります。
また上記ページで言及されていますが、惣角の直弟子には惣角直筆の免状が渡されるのですが、崔龍述はその事を日本人から突っ込まれると「盗まれた」と言い訳しています。
このように、ハプキドー創始者の経歴は非常に「胡散臭い」のです。
2:柔術の起源主張
ハプキドーの創始者についてはこのような状態なのですが、最初の記事では「学界では大東流柔術について三国時代の武芸が日本に転移して長い歳月にわたり実戦武術形態に発展した武術という見解もある」という内容が書かれています。
(余談ですが、崔龍述に関しては以下の起源主張をしたという記録はありません、彼の記録はあくまで惣角の一番弟子と正当後継者を自称したところまでであり、以下は後のハプキドー関係者が創作したものではないかと言われています。)
これなのですが、実体は何かといえば柔術は「新羅の三郎(サムラン)という官職の人々が日本に伝授したもの」という柔術の起源主張なのです。
詳しくはこちらを参照
大邱が発源地…新羅三郎源義光が始祖
しかし、新羅三郎とは源義光のことであり、彼がこう名乗ったのは近江の「大津三井寺新羅善神堂(新羅明神)」で元服したからであって、新羅の官職ではないどころか新羅との直接的な繋がりすらありません。
ちなみに、義光は三男なので三郎なのですが、長男の源義家は山城の「石清水八幡宮」で元服したので八幡太郎と名乗り、次男の源義綱は京の賀茂神社で元服した事から賀茂次郎と名乗っています。
そして、義光は伝説上柔術の開祖と言われており、惣角も甲斐源氏の家系である事から大東流の開祖は源義光であると宣伝していた背景があります。
(実際は義光と大東流の間に直接の関係はないそうですが)
韓国のハプキドー関係者は、このエピソードを都合の良いように捻じ曲げ、更にいわゆる「花朗武人説」とこじつけ、「新羅には三郎(サムラン)という武人の官職があったのだ」というストーリーを作り上げたのです。
(早稲田大学の富木謙沼教授が発信元という説もあります)
ちなみに、この柔術の起源主張と新羅三郎のトンデモ説なのですが、今から10年ほど前に韓国でも「デタラメである」という事が周知されるようになり、韓国起源説では珍しく「韓国内で起源が否定される」という状態になってました。
が、今回引用した中央日報の記事では、このトンデモ説が事実上復活しているのです。
3:今後注意しないといけない事
今回この件を記事にしたのは、中央日報が記事にしたからというのもあるのですが、実はもう一つ理由があります。
それは、現在韓国では文在寅大統領主導で「積弊清算」という名の「保守殲滅作戦」が行われているのですが、その矛先は外国でのプロパガンダを行っていた人々にも向けられるようになってきています。
例えばこのブロマガでも過去何度か「政府支援で民族主義ビジネスをしている」として記事にした徐敬徳教授が、韓国の諜報機関である国家情報院から資金援助を受けていたとして槍玉にあがっています。
このため、「韓国人の多くが望む行為ならば叩かれない」というセオリーも成り立ちません。
要するに文在寅大統領は、朴槿恵大統領と李明博大統領の行った政策の中で、少しでも落ち度があればそれを見つけ出して「劣等性の指摘」を行うという事を繰り返しているわけです。
しかし、明らかに政府主導で資金が流れていた世界規模の「韓国起源説」キャンペーンに関しては、李承晩の英雄化目的もあったソメイヨシノの韓国起源説も含め、一切「積弊」として取り上げられていません。
前政権のあらゆる行為を「積弊」としてバッシングし、李承晩を「諸悪の根源」として叩いている文政権が、この件だけはなぜか避けているのです。
という事は、現在文政権は国内の「積弊叩き(=劣等性の指摘)」に夢中になっていますが、今後「積弊叩き」が一段落した場合、求心力維持のために過去の政権と同じく韓国起源説を利用する可能性がまだあると考えられます。
今回ハプキドーの韓国起源説が韓国三大紙の一つである中央日報で記事にされたという事は、もしかするとかつて金大中政権に取り入った大韓剣道会や、李明博政権に取り入った海東剣道や紙文化財団のように、ハプキドーが文政権における「その位置」に座ろうとしているのではないかということです。
勿論、これは憶測でしかありませんし、韓国起源説が嫌韓の原因になっている事は現状韓国内でもかなり知られています。
表向きは「日本の右傾化が原因である」という事になっていますが。
ですから、不用意にかつてのような大キャンペーンをする事はないと想定していたのですが、今回中央日報が堂々と記事にした事でその予想が少し崩れたわけです。
つまり、これは今後注意して監視しないといけない懸案となったのです。
お知らせ。
このニコニコのブロマガの仕様上、コメントが新たにあった事は解るのですが「どの記事にコメントがされたのか」を確認することが困難です。
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