日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

韓国人の中にある「主観的正しさ」と「恨(ハン)」


さて、今回はタイトルにもある内容となるわけなのですが、これらは過去にも扱っています。
ではなぜ今回扱うのかと言えば、私自身が「恨(ハン)」に対する新たな認識を持った事と、もう一つ今回ニコニコで放映されたドキュメンタリーやそれに対する意見、また7月31日に同じくニコニコ生放送で行われた討論会、これらの場で非常に気になる内容があったからです。


それは何かといえば、以前から繰り返されてきた意見ではあるのですが、「日本も韓国も一部の嫌韓反日が煽りあっているから問題が起きる」というものです。
この意見なのですが、私には非常に傲慢で近視眼的な物言いにしか見えません。


なぜなのか、この主張をする人々は日本にも韓国にも一定数存在しているのですが、双方が全く異なる価値観による視点から、お互いが同一の常識(価値観)のもとに物事を判断しているとの前提で、表面的に意思疎通を果たしたつもりになって安易な「どっちもどっち論」にもって行こうとしているだけだからです。


実際には日本と韓国では価値観が大幅に異なるにも関わらず、その事を全く認識していない、まずはその認識のズレに焦点を当てなければいけないにも関わらず、彼らの存在がそれを阻害し、問題をより複雑化し恒常化させてしまっているのです。


今回はその事を、朴槿恵大統領の妹である朴槿令氏へのニコニコのインタビューに対する、韓国側の反応を中心に、価値観の違いがどんな認識の違いを生み出しているのか、その事を韓国側の反応から解説して行きます。


まずはこちらの記事から。


朴槿令氏発言に韓国与野党が反発
朝鮮日報 2015/07/31
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/07/31/2015073100810.html
韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の妹、朴槿令(パク・クンリョン)氏が30日、旧日本軍の慰安婦問題など歴史問題について日本に謝罪を要求し続けるのは不当だとの趣旨の発言をしたことに対し、与野党はそろって「不適切だ」と批判している。

 与党セヌリ党の幹部はこの日午後、電話取材に対し「日本側の歪(ゆが)んだ歴史認識に惑わされ、日本の立場を繰り返したようだ」と述べ「公人として適切でないと思う」と指摘した。別の党幹部も「一個人の意見だ」との認識を示した。

 一方、最大野党・新政治民主連合の李彦周(イ・オンジュ)院内報道官は「大統領の妹という立場でそんな考えをずけずけと口にするのは、自分と大統領の関係を完全に忘れてしまった呆れた振る舞いだ」と批判。槿令氏は日本政府の報道官のようだとした上で「歴史意識の不在というべきか、歴史の中で積み重なった韓国国民の恨(ハン=晴らせない無念の思い) を全く理解していない」と糾弾した。



これなのですが、朴槿令氏の発言は韓国の保守層による「用日論」や、韓国の財閥の意向などから出てきた言葉で、まあそれ以上でも以下でもないのですが、この記事で重要なのは反発の根拠として「恨(ハン)」に言及されていることです。


この「恨(ハン)」なのですが、後ほど詳細については書きますが、韓国では一般的に『韓国人の誰もが持っているもの』であり、度々韓国人は自国の事を「恨の国」と呼びます。
つまり、この「恨(ハン)」とは、それだけ韓国では一般的な概念であり価値観であり、韓国人全体として共通認識が存在している情緒だという事です。


そして、この「恨(ハン)」とは、韓国人以外にとってはもっとも理解しがたい概念であり、現状ですら私自身100%理解し把握しているとは言えない概念です。
それどころか、日本も含め多数の国の人がこの「恨(ハン)」の解説を行っているのですが、『人によって解釈が微妙に違う』という、余計に混乱を助長してしまうような事態も起きています。
それくらい韓国というより朝鮮半島に住む民族独特の概念であり価値観であり情緒なのです。


そのうえで、現在日韓の間に起きている問題にも、この恨が非常に深く関わっており、朴槿令氏への韓国人の反発も、この韓国人全体で共有する独特の価値観に根ざしたものであるという事が、先ほど引用した記事からも解るわけです。


そのうえで、「日本と韓国で一部の嫌韓反日、或いはメディア等が煽っているから問題が起きている」という理屈は成り立つでしょうか?
成り立つ訳がないのです、先ほども書いたように、もしこのどっちもどっち論が成り立つのならば、朴槿令氏の発言に対する反発として「恨」という韓国人全体で共有する価値観が問題になるわけがないからです。


次に紹介する記事でこの辺りのテストをしてみましょう。
以下の記事から何を読み取れるかで、皆さんがどのように日韓問題を捉えているのかが解ります。


[キム・ヨンリム]パク・クネ「千年の恨」対する日本の巨大な誤解②
東亜日報ブログ(韓国語) 2015/7/28
http://blog.donga.com/milhoon/archives/6045
私たちの恨と日本の「恨み」はニュアンスが異なる。それを同じと考えて誤解が生まれた。韓国の大国化と相まって日本の嫌韓論が出てきた。
(一部抜粋)
私的報復を認める文化

日本の嫌韓論者らは私たちの‘恨’を‘恨み’と翻訳した。恨と恨みは同じ漢字を書くが概念は全く異なる。韓国人の‘恨’は自分の運命に対する強烈な心残りと悔しさ、そして忍耐を優先して‘残念で悲しい’感情を強調する。一方、日本人の‘恨み’は他人の処置に‘憤慨して憎悪する心’が強調される。やられたら必ずやり返えさなければならない‘怨恨’に近い概念だ。

両者の解決方式も違う。これは両国の代表的古典を読んでもその差が分かる。韓国の‘薔花紅蓮伝’は無念の死を遂げた姉妹の恨を新しく赴任した地方官が殺人者の継母と腹違いの兄弟を処罰することによって解決する構造だ。姉妹の怨みの霊は新任官吏の公式手続きを通じて正当さが証明されたので恨みをはらすことができた。

韓国は中央集権体制と朱子学的倫理観に浸かったせいなのか合法的手続きが欠如した直接的な復讐をダブー視する傾向がある。相手が懺悔してそれを被害者が受け入れるだけで解決される構図が多い。しかし、日本式の話の構造では大きく異なる。姉妹の怨みの霊が継母と腹違いの兄弟を直接懲らしめて‘結末を見届ける’ストーリーになっただろう。

恨みと関連した日本の代表的古典に‘忠臣蔵’がある。‘忠臣蔵’の主人公の武士は、幕府の官吏に侮辱されたことに抵抗した彼らの主君が切腹を命じられて領地が没収される事件を体験し、主君の恨みをはらすために幕府の官吏に直接復讐して自首した後切腹する。私たちだったら最後まで中央政府に直訴して王命を待ち、それによって党派争いが起きる構図だっただろう。

日本は戦国時代の混乱期に司法体制が崩れたので、個人の直接的な復讐を‘自力救済’という論理で賛美する文化ができ、このような作品が人気を得たと見られる。従って基本的意味と解決方式が異なる韓国人の恨を日本語の恨みに直訳すれば誤訳になる。日本の嫌韓メディアは韓国人を‘恨みの民族’と強調し、韓国人に対する日本人の不安と嫌悪を拡大再生産する。韓国人が過去の歴史の恨みをはらすためにまた元寇になって復讐するという論理飛躍まであえてする。韓国人の恨解決方式を彼らの恨み解決方式と同一視したのだ。



さて、ここから何が読み取れたでしょうか。
恐らく「どっちもどっち論」を訴える人々は、これを言葉通りに受け取ってしまうでしょう。
なぜなら問題を起こしているのは一部の人だけとの考えは、そもそも日韓双方の社会の間にある価値観や認識の違いと対立、それそのものを否定しないと成り立たたず、矛盾が起きても全て「一部の例」と思考停止した結果だからです。


そしてある程度違いに気づき始めた人は、「韓国で現在英雄とされている人々の大半は、合法的な解決に沿わないテロ行為だ」と疑問に感じるでしょう。
また対馬の仏像盗難事件や三菱訴訟問題にしても、彼らが法的手続きに沿わない報復行為をしているのですから、何もかもが矛盾に感じるでしょう。


そして更に、日韓の価値観やあり方の違いを明確に認識した人は、上記の矛盾に気付くと同時に、彼らの「恨」に対する認識に強烈な違和感を覚えるでしょう。
現実に起きていることとの間に差がありすぎるからです。
この違和感の正体の答えは韓国人の中にある「主観的な正しさ」にあります。


韓国では、以前から書いているように正しい事に根拠を必要としていません。
正しさは最初からそこにあるものであり、全ての人々が当然のように理解できる物であるのだから、わざわざ根拠を提示する必要が無いのです。
そして、この正しさは徳の高さからくるものであり、韓国人は皆が皆自分は徳の高い存在であると考える傾向にあり、自身の主観的正しさが受け入れられないのは不当な扱いだと感じます。


私が行き着いた考えでは、韓国人の恨とは要するに、この主観的な正しさが受け入れられないことに対する韓国人の感じる理不尽さを根底として、そこから導き出される様々な反応の総称ではないかとの考えに行き着きました。
だから人によって解釈に微妙な違いが出るのです。


今回の場合ならば、記事中にある合法的手続きとは、要するに「徳の高い者が決めたこと」だから正しいと解釈すると理解しやすいです。
そしてこの考えに立てば安重根の事例や対馬の仏像盗難事件、日韓請求権関連協定を無視した三菱訴訟問題なども矛盾が解消されますし、最初の記事の韓国人の反発も理解しやすいです。


要するに韓国人は自分達は徳の高い存在であると考えているので、その行いは全て徳の高さによって正しさが証明されたことになっているのです。
ですから、暗殺をしようが文化財を盗もうが、国家間の協定を無視しようが、徳の高さによって正しさが証明されているので何ら問題ないのです。
朴槿令氏の場合には、この徳の高さ=主観的正しさを否定してしまっているがために、韓国人は不当に正しさが貶められたと恨を感じたわけです。


そして、彼らは絶対的正しさと同時に、以前から何度も書いている蔑視ありきの自民族中心主義と呼ばれる独特の価値観も持っています。
韓国人は常に自らが絶対的に正しく徳が高いと感じていますが、自身の行いに確信を持って正しさを感じているのではなく、あくまで「(主観的な観点からの)他者の劣等性」によって「相手が劣っているから自分は優れているのだ」と、相対的に正しさを確信しているだけです。


朴槿令氏の場合ならば、韓国人の中では「日本が謝罪し続けること」で自らの正しさを確信できているにも関わらず、それを否定してしまったら彼らの中で正しさを確認する事ができなくなってしまうわけです。
だから一般的な韓国人にとってはより許せないと、そんな背景もあるわけです。


最後に。
このように、日本と韓国では価値観の違いから社会的に認知されている常識そのものが異なり、異なるからこそ問題や対立がおきているわけです。
それを一切無視して、「双方一部の嫌韓反日が煽りあっているだけだ」という観点に立ってしまっては、原因からどんどん遠ざかっていくだけです。


そもそもこの考えは、要するに問題を矮小化して他者に責任転嫁するだけであると同時に、特に日本では韓国に対して批判的な意見をする人々へのレッテル貼りとしてしか機能していません。
これほど傲慢で無責任な態度は批判されて当然なのです。


そして問題は、このような無責任で傲慢な考えに立つ人々ほど、公的にメディアに現れ安易などっちもどっち論を展開する傾向が日本では非常に目立ちます。
そしてそれがより一層問題を深め、意思疎通を不可能にし、特に韓国人に対しては「日本人も大半は正しさを理解している」という誤ったメッセージを送り続け、韓国人の「主観的正しさ」から来る行いをエスカレートさせる原因となっているのです。