日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

韓国人の歴史観と自民族中心主義

今回は韓国人の歴史観の話となります。
実は今回、本来はまた多文化主義と韓国人について書こうと考えていたのですが、それを説明する上で韓国人の歴史観の説明がどうしても必要になってきます。そこで今回は韓国人の歴史観を、次回はそれを踏まえたうえでこのまま日本が多文化主義を進めた場合に発生する問題点と矛盾を書く事にしました。
なので今回ちょっとたいくつかもしれませんが、本題は次回でありこれを説明しておかないとちょっと問題点の説明が難しくなってしまうので、読んでいただけると嬉しいです。


以前から書いているように、韓国は異民族や異人種・異文化を蔑視する自民族中心主義を、政府の方針で学校教育に取り入れている国だ。
韓国との歴史問題と言うと、慰安婦問題や併合問題、靖国問題などの近代史が頭に浮ぶ人が多いと思うが、実は韓国が日本との間でモメている歴史認識や歴史問題はその大部分を古代史を占めている。そしてそれは、韓国が自民族中心主義に基く「文化的に劣った日本と優れた朝鮮」という結論ありきの歴史観を日本に押しつけようとしているからだ。

彼らの自民族中心主義的歴史観の具体例を書いていこう。
良く韓国人は「天皇百済系だ」と主張し、天皇の起源が朝鮮にあるとしており、学校教育でもメディアでもそれが韓国での常識となっている。
ではその主張のソース元は何かといえば、それは2001年の天皇陛下の記者会見にあるのだが、原文は以下の通りだ。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によっ て,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。 こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展 に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを 感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を 伝えたことで知られております。
この文章の中の「私自身としては,桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを 感じています。」という部分を根拠に百済系としているわけだ。
そして、現在はその話が韓国内で独り歩きを始め、既に考古学上は間違いがほぼ確定し廃れた「騎馬民族朝鮮半島渡来人説」と結びつき、「天皇朝鮮人で古代の日本を占領し支配た」という話にまで飛躍している。

ではそもそも、桓武天皇の生母とはどんな人物なのか。
それを説明する上で重要となってくるのが、当時の日本と百済の関係だ。
実は古代から中世にかけての日中韓の歴史書には、どれも「百済新羅が日本に服属していた事」が書かれている。
そして朝鮮最古の歴史書である三国史記や、日本の歴史書である日本書紀には「百済が服属の証として王子を日本へ人質に差し出していた」と書かれている。
桓武天皇の生母とは、この人質に出された王子の10代後の子孫である高野新笠という人物なのだ。
実は百済王族の子孫といってもその程度の繋がりしかない。

ではなぜ人質の子孫がそのまま日本にいたかといえば、百済が西暦660年に滅亡して王族が日本へと亡命、5代目の和史宇奈羅が百済再興を諦め日本へ帰化したからだ。
ただし、朝鮮の歴史書である「三国史記」と高野新笠に言及している「続日本紀」にはいくつかの矛盾点があり、本当に高野新笠百済王族の末裔だったかはまだ確定していない。
だから「続日本紀にはそう書かれている」という前置きをしたうえで「ゆかりがある」という曖昧な発言になっているわけだ。

しかし現在の韓国人は、学者も含めその殆どがこの事実の根幹となる「百済新羅は日本に服属していた」という事そのものを認めていない。
そこに何かしらの根拠があるわけでは無く、「文化的に劣等な日本に優れた文化の朝鮮が文明を教えた」という大前提が結論として先にあるので、はっきり書いてしまえば「感情的に受け入れられない」というわけだ。
天皇は朝鮮系」という彼らの主張も、要するにこの願望の延長線上にあるもので、特に根拠があるわけですらない。
古朝鮮が当時日本に服属していた証拠
広開土王碑
百殘・新羅舊是屬民、由来朝貢
而倭、以辛卯年[391]來、渡毎破百殘、更□新羅、以爲臣民。
(訳)
百済新羅高句麗の属国だったが、391年に日本が海を渡って攻めてきて百済を打ち破り、さらに新羅も打ち破って属国にした。

隋書 巻八十一 東夷伝 倭国
新羅百済皆以倭為大国多珍物並敬仰之恒通使往来」
(訳)
新羅百済は日本を大国で珍しい物が多い国だとしており、ともに日本を敬い仰ぎ、つねに使いを送り、往来している 」

宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王(中略)…詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
(訳)
倭王武の時代に宋から使持節郡督倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王の称号を受ける。

三国史記 新羅本紀
倭国と好誼を通じ、奈勿王の子未斯欣を人質とした。
均貞に大阿滄を授け、仮に王子として倭国に人質として送ろうとした。

百済本紀
(阿宰)王は、倭国と好誼を結び、太子の腆支を人質とした。太子であった扶余豊は、かつて倭国に人質となっていた。
ここで挙げた史料のほかにもいくつかあるが、その全てを韓国人は日本との歴史共同研究という学者同士の会議の場ですらろくに根拠も無いまま全否定してしまっているありさまだ。



そしてもう一つ、韓国人は「日本は文化的に未開であったので、朝鮮が文明を教えた、古代日本の政治の中枢は渡来系朝鮮人が支配していた」というものだ。
これは韓国人の何でも起源を主張する韓国起源説と密接に関係しており、彼らの中では「文明を教えてあげたのだから日本の文化の根っこ(起源)は全て自分達にある」と考えているという理屈だ。
そしてこれが以前も書いた韓国人の中に必ず存在する自民族中心主義的「土台」の一つでもある。

韓国人の中には、韓国起源説を批判されると「そんな事を信じているのは一部の例だ」とか「そんな話を信じている韓国人はいない」という人が多い。たしかに、個別の事例での信じる信じないは韓国人の中でも人それぞれでかなり程度の差があるのは事実だ。しかしたとえば剣術や日本刀、忍者、ソメイヨシノ、茶道、侍、柔道、などなど、個別の事例は否定していても、教育によって「土台」は持っているので、多くの韓国人は「それを発明したのは日本かもしれないけれど、その根元は我国の物を真似しただけでしょ、オリジナルは朝鮮だ」と考える、実際のところは否定するにしてもかなり意識の違いがあるのだ。
実際のところ、韓国起源説の問題の本質部分は個別の事例では無くここにある。

この考え方は、元々小中華思想と呼ばれる朝鮮に古くからある思想から来ており、この思想では中華=中原=中国をアジアの文明の中心と考え、文化は水が高いところから低いところへ流れるのと同じように、中心からその周囲へと伝播していくものだと定義つけられている。
そして、中華から近ければば近いほど文明的であり、遠ければ遠いほど非文明的であるとしている。
朝鮮は日本より中華に近いのでより「文明的だ」というわけだ。
要するにそういう「思想」なのだ。

勿論これは事実と異なる。
そもそも文明や文化というのは相互に作用するものであり、一方的に影響を与えるという事はそうあるものではない。
古代の日本と朝鮮の関係を見ても、たしかに様々な理由から中国の文化の一部を朝鮮経由で手に入れた時期があるにはあるが、それが全てではないし、何よりこの文化交流があった時期は新羅百済が日本に服属していた時期と重なるのだから、現代の韓国人が考えるような「師弟関係」のようなものではありえない。

また、文化が朝鮮から日本だけでなく、日本から朝鮮へと伝わったとする事例も多数存在する。
その典型例は前方後円墳だろう。
だいぶ前に事になるが、韓国で前方後円墳が発見され、一時期韓国で「やはり日本の起源は自分達にあった」とメディアを賑わせた。
しかし、その後調査が進むにつれて韓国で発見された前方後円墳はどれも日本のものより新しく、規模も小さいことが判明、朝鮮から日本へ伝わった物では無く、日本から朝鮮へ伝わった物である事がわかってきた。
結果韓国人達は「全ての日本の文明は自分達が伝えた」という前提が崩れてしまう事を恐れ、遺跡保護を名目に殆どを埋めなおしてしまった。
これは日本が古代に朝鮮半島に直轄地を持っていたとする「任那日本府説」の存在を肯定してしまう遺跡である事もあり、自民族中心主義教育によって「土台」を持つ韓国人達にとって、「日本から伝わった」という前提そのものが受け入れられなかったわけだ。

更に、稲作や仏教に関しても近年になってこういった研究結果が出ている。
<2007年 日中越国際会議の「東アジアの文化交流―仏教と水田稲作の伝来>
http://www.hokkai.ac.jp/hinaswiki/pukiwiki/index.php?plugin=attach&refer=NewsLetter&openfile=Newsletter%20No.124.pdf
 昨年12月、ベトナムホーチミン市で開催された日中越国際会議の「東アジアの文化交流―仏教と水田稲作の伝来」(川端)では、これまで大陸から朝鮮半島を経由して伝来したとされてきた仏教も稲作も、新しい科学的な年代測定により、中国南方からの直伝が確実視されることが報告された。

 仏教については、基本的な用語のほとんどが中国南朝の呉音の読みなので、日本の仏教が江南から伝来したことは疑いなかったのであるが、さらに2001年、年輪年代法により、法隆寺の中心柱の伐採が西暦594年と断定され、寺院建築もまた南朝から伝来したことが確実となった。
その当時の南朝尺で、法隆寺の用材の寸法がとられていることが判明した。これまで飛鳥様式といわれてきたのは、実は中国ではすでに失われてしまった南朝様式を今に伝えるものだったのである。

 水田稲作についてもまた、2003年になって、ようやく日本の国立歴史民俗博物館なども、炭素14による年代測定を受け入れ、筑紫での水田稲作の開始、つまり弥生時代の始まりが500年も早まり、いまから2800~3000年ほど前ということになった。韓国ではすでに早くから炭素14による年代測定を採用しており、百済水田稲作遺跡は2800年前のものだとされていた。筑紫も百済も、ほぼ同じころに水田稲作が伝来したことになる。韓国から500年遅れで稲作が伝来し、急速に近畿まで広がったというこれまでの定説は覆った。
500年も狂えば、諸説はすべて根本修正が求められる。

 水田稲作の最古の遺跡は、中国江南の越の国、会稽山のふもとにあり、今から7000年前のものである。
そのすぐ北の呉の国には、6000年前の水田遺跡がある。司馬遷史記が記さない長江文明を支えたのは苗蛮などの稲作族であった。その稲作族のひとつが半島南部と北九州へ移住したのだと考えられる。
3000年前の伝来といえば、華北では殷が滅び、漢民族の新しい周王朝が誕生したころのことである。
戦国のころ呉越には稲をイネという人々がいて、今も方言で残っているという。

 水稲は水辺の多年生植物で、越冬した株から分れ出た新芽を、水を湛えた田に移植して稲作は始まったのだから、降雨量が少なく冬季極寒の華北を経由してから朝鮮半島を南下し、再び温暖湿潤な日本にまでやってくるというようなルートは、まったくありえないことであろう。
要するに、朝鮮半島南部に伝わった稲作が朝鮮半島経由で日本へ伝わったという説や、仏教という「新しい概念そのもの」や「現在も京都や奈良に残る仏教建築」が朝鮮半島から来た渡来人によって齎されたとする説は、どうやら間違いだったという事になる。
当然の事ながら、韓国人はこれ等事実も一切認めていない、むしろこういった発表すらも「右翼的」とか「歴史修正主義」と断じて積極的に妨害すらしてくる。

現在、韓国や日本の一部の研究者の中では、朝鮮半島南端部を経由して稲作が伝わったとする説も出てきてはいるが、これは読む限り資料から結論を出したというよりも、「朝鮮半島を経由した」という結論にするために必要な資料を繋ぎ合わせたというような代物だ。

このように、日本人と韓国人は歴史観そのものに大きな違いがある。
日本人は歴史資料に基く歴史観を持つのに対し、韓国人は小中華思想や自民族中心主義といった「思想」に基く歴史観を持っている。
そして韓国人は、彼らの思想に基く「正しい歴史観」を広めるために政府レベルでの世界規模の活動を続けており、特に政府から資金援助を受けているVANKと呼ばれる組織は、子供を使ってかなり過激な活動を行っている。
当然の事ながら、韓国政府は日本にもこの「正しい歴史観」を持つように要求してきており、たとえ慰安婦問題や靖国問題、請求権問題で日本が韓国の望む通りに譲歩したとしても、次はこの「歴史観」の要求を前面にだして「譲歩」を迫ってくるだけだろう。
そもそも資料ありきの歴史観と思想ありきの歴史観では、根本的に前提そのものが異なるのだから、共通認識としての歴史観など持てるわけが無いのだが。


以上となります。
今回、何か詰め込みすぎて冗長になってしまった気がしますが、いかがだったでしょうか。
次回は多文化主義とこの韓国人の持つ「正しい歴史観」の問題が中心となります。要するに、彼らの自民族中心主義や小中華思想を背景とした歴史観の「文化」を受け入れるのは多文化主義なのかどうかという問題です。
それでは。