日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

ソメイヨシノの○○起源説(特別編)


本日は日本の桜文化やソメイヨシノの歴史についてとなります。
また、完全新規の内容で元記事はありません。
そしてまさかの20分動画。





画質改善版



youtube
https://youtu.be/ynPnSqHSxBA


以下は動画のテキスト版となります。

初めて来られた方はまずこちらを先に読む事をお勧めします。

ブロマガ『日韓問題(初心者向け)』を始めた理由


注意
・この動画は「日韓の価値観の違い」を扱っています

・うp主のスタンスは「価値観に善悪や優劣は存在しない」というものです

・相手が不法を働いているからとこちらが不法をして良い理由にはなりません

・自身の常識が相手にとっても常識とは限りません

・日常生活で注意する程度には言動に注意を心がけてください

・キャラ崩壊あり

・動画の拙い部分は生暖かく見守ってください、そのうちなんとかします



レイム マリサ
ゆっくりしていってね


レイム
さて、今回は前回予告したようにちょっと特殊な回になるわ。


マリサ
ああ、カテゴリータグがいつもの政治じゃなくて「自然」なんだよな。


レイム
そうなのよ。
一応今回の動画もかの国の起源主張に全く関係ないわけじゃないんだけど、
今回は日本における桜文化の歴史やソメイヨシノの遺伝的な繋がりの話とかになるから、かの国は全く出てこないのよね。


マリサ
でもなんでそんな面倒な事をするんだ?


レイム
一番の理由は、前々回の動画のコメントを見ていてソメイヨシノや桜に関連した文化の歴史とかについて、予備知識として最初にやっておいたほうがいいかなとうp主が判断したからね。


マリサ
ああ、なるほどな。
私も桜の歴史とか言われてもなんとなくしか解らんしな。


レイム
そんなわけで本編へいくわ


桜の歴史(前編)


レイム
まずね、日本に「桜」がいつからあったのかだけど、これは前々回の動画でも説明したように、鳥取県鮮新世(500万年前から258万年前)の地層からムカシヤマザクラの化石が見つかっているので、その頃にはあった事になるわ。


マリサ
あれ?桜のルーツってヒマラヤじゃないのか?


レイム
ヒマラヤよ?


マリサ
そんな時代にどうやって日本に桜がやってきたんだ?


レイム
ああ、そういうことね。
マリサ、植物って自分では歩き回れないでしょ?


マリサ
歩き回れる植物がいたら怖いぜ。


レイム
でね、それじゃ植物は自分達の生息範囲を広める事ができないでしょ?


マリサ
まあそりゃそうだな。


レイム
で、そういう時に植物は他の動物の力を借りる場合が多いのだけど、大陸から離れた島へ渡ってくる場合によく使われるルートは「鳥」なのね。


マリサ
鳥に運んでもらうのか?どうやって?


レイム
実を食べてもらうのよ。


マリサ
食べられちゃったら終わりじゃないか。


レイム
終わりじゃないわよ。
植物の種ってね、殆どの場合消化されないの。
で、移動先でフンをすると、消化されなかった種が一緒に落ちてそこで芽吹くわけね。


マリサ
ああ、それで「海を渡れる」ってわけか。


レイム
そういうこと。
で、桜もそうやって日本に渡ってきているのだけど、今の日本にはヤマザクラエドヒガンみたいに東アジア全域で広く見られる種から、オオシマザクラみたいに日本にしかない固有種まで、10種の基本野生種とその変種100種、人工的に交配された園芸品種が200種あると言われているわ。


マリサ
へぇ~、結構色々あるんだな。


レイム
それでね、じゃあいつ頃から日本で桜が「特別な花」になったかというとね、「厳密には」わからないの。


レイム
一応、歴史上はいわゆる国風文化の発生頃からと言われていて、特に嵯峨天皇(在位809年~823年)は桜が好きで、今では縁結びの神様として有名な京都東山の地主神社の御車返しの桜の名前の由来は、嵯峨天皇が桜のあまりの美しさに三度車を引き返させたという伝承からきているわ。

地主神社HPより
地主神社の由来
http://www.jishujinja.or.jp/history/

地主神社の創建年代は神代(かみよ:日本の建国以前)とされ、近年の研究により「恋占いの石」が縄文時代の遺物であることが確認されました。
811年(弘仁2年)に嵯峨天皇行幸された折には、地主桜の美しさに三度車を返され、「御車返しの桜」の由来となりました。970年(天禄元年)円融天皇、1082年(永保2年)には白河天皇行幸され、地主神社の歴史とご神威の貴さを物語っています。


※ちなみに、御車返しの桜はこの故事からとって「ミクルマガエシ」と呼ばれる品種名となっています。


マリサ
ああ、国風文化は知ってるぜ。
聖徳太子が中国に「日出ところの天子~」って手紙を送った頃から出てきた日本の文化だよな。


レイム
で、それ以前は中国と同じで梅が重視されていたようなんだけど、実は奈良時代万葉集にも数は少ないけど桜に言及した和歌があって、面白いところでは奈良時代の薬師、張氏福子(ちょうしのふくし)の詠んだ歌にこんなのがあるのね。

万葉集 巻五
烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆那 都伎弖佐久倍久 奈利尓弖阿良受也
梅の花、咲きて散りなば、桜花(さくらばな)、継(つ)ぎて咲くべく、なりにてあらずや

現代語訳
梅の花が咲いて散ったら、すぐに続いて桜(さくら)が咲きそうになっているではないですか


レイム
見ての通り、桜と梅が同じ和歌の中で詠まれているの。
どうもね、桜が大きく注目されるようになったのは国風文化の高まりと嵯峨天皇に由来するようだけど、元々春の農作業の始まりを伝える花として、一般ではずっと重視されていたみたいなのね。


マリサ
つまり、梅から桜にいきなり変化したわけじゃなくて、元々桜を重視する土壌があって、それが国風文化の高まりで広まったって事か。


レイム
そういうことね。
それでね、平安中期頃になると桜は女性的なイメージで語られるようになって、宮中の女性も桜を重視するようになったのだけど、このあたりは源氏物語で桜が女性と一緒に出てくることが多い事でも解るわ。


マリサ
ってことは、花見とかもその頃からって事か?


レイム
お花見に関しては、記録上さっきの嵯峨天皇が最初ね。
嵯峨天皇は毎年地主神社に桜を献上させていたって記録があるから。


レイム
ただ、この頃のお花見は今知られているようなものとはちょっと違って、自分の家の庭に桜を植えて、桜が咲くと客を呼んで鑑賞して和歌を詠んだり食事をしたりするというものだったみたいだけどね。


マリサ
私達の知ってる花見とはちょっと違ったんだな。
じゃあ私達の知ってる花見っていつ頃からあったんだ?


レイム
それに関しては鎌倉時代歌人吉田兼好」の徒然草で武士階級が行っていた「貴族式の花見」と「片田舎の人」の花見の対比があるから、恐らく鎌倉時代頃日本のあちこちでお花見が行われるようになっていたようね。


レイム
ちなみに、この「片田舎の人」式の酒宴を中心とした「堅苦しさ」の無い花見は戦国時代に主流となったようで、豊臣秀吉平安時代頃から桜(主にヤマザクラ)が植樹され続けてお花見の名所になっていた、奈良の吉野山や京都の醍醐寺で超大規模なお花見を開いているわね。


マリサ
なんかすごそうだが何が超大規模だったんだ?


レイム
1594年の吉野の花見では有名戦国武将や歌人、茶人など5000人の客人を呼んで大規模に行ったそうね。


レイム
1598年の京都醍醐の花見では更に規模が大きくなって、この花見のためだけに新たに醍醐寺裏の山麓に700本の桜を植樹、諸大名に伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や会場に設営された茶屋の運営をさせ、このためだけに招待客用の風呂まで設営したそうよ。


レイム
ちなみに、招待した女房女中衆1300人の衣装代が現代の金額換算で39億円もかかったというから、後にも先にも文字通り「日本史上最大のお花見」だったことは間違いないわ。


※『歴史ヒストリア』日本人と桜の物語
NHK 2015年3月25日


マリサ
なんか規模がでかすぎてわけわからんぜ。


桜の歴史(後編)


レイム
ここからは江戸時代以降の桜文化になるわね。
この頃になると、お花見は完全に庶民にも定着していたわけだけど、当然江戸にも桜の名所があってね、そのなかで一番有名だったのは今と同じで上野だったのね。


マリサ
へぇ~、上野ってそんな頃から桜の名所だったのか。


レイム
元々はね、家康の側近だった僧侶天海が、三代将軍の家光に進言して創設された寺院寛永寺があったんだけど、天海の命で境内や周辺に奈良の吉野山からヤマザクラを大量に植樹して、それが桜の名所となったようね。


歌川広重
『名所江戸百景』より寛永寺水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」


レイム
それで日本で多数の文化が花開いた元禄の時代になると、花見文化も盛んになって上野にも多数の花見客が訪れるようになり、今と同じような「お花見」が行われていたようね。


国立国会図書館データコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2575105/1

戸田茂睡(とだ もすい) 「紫の一本(ひともと)」

幕の多きは300余あり。少なき時は200あまりあり。このほかにつれだちたる女房の上着の小袖、男の羽織を、弁当かかげたる細引きにとほして桜の気にゆひつけて、かりの幕にして、毛氈・花むしろしきて酒のむなり。鳴物はならず。小唄・浄瑠璃・踊り・仕舞はとがむることなし


レイム
こちらの江戸時代の歌学者戸田茂睡の本では、庶民が上野の山で小袖や羽織を幕の代わりに木陰にかけ、毛氈(もうせん)や花むしろを敷いて酒を飲み、歌や踊りで楽しんでいたと書かれているわ。


マリサ
ああ、ここまでくると完全に今の花見と同じだな。


レイム
ただ問題も起きていてね、あまりにも人が上野に集まりすぎた結果、寛永寺の敷地内でも「お花見」をする人が現れだして、流石に徳川家の菩提寺どんちゃん騒ぎはダメって事になって、境内や周辺での音曲が禁止され、更に上野の山でも暮六になると寛永寺のガードマンがやってきて花見客を追い出すという事態になっていたそうね。

国立国会図書館サーチナ
https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/91.php

(一部抜粋)
上野が花見の名所になったのは、徳川家の菩提寺である寛永寺の境内に、徳川家光が吉野を模して桜を植樹させたのが始まりです。江戸の中心部からも近く、多くの人々が花見に訪れました。しかし、楽器を打ち鳴らしながら飲めや食えやの大騒ぎが問題になり、花見が禁止されたこともありました。


マリサ
なんか大騒ぎだなおい。
上野の他には花見できる場所が無かったのか?


レイム
あったわよ。
当時は浅草も有名だったし、花見用に品川の御殿山に桜を植樹して庶民に解放したりもしていたわね。
ただ、御殿山のほうはペリー来航時に砲台設置のために大半が切り崩されちゃったけどね。
他にも隅田川沿いや東京都北区の飛鳥山公園の辺りにも植樹されて大規模なお花見の名所になっていたようね。

国立国会図書館サーチナ
https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/91.php
浅草金竜山奥山花屋敷 (風俗吾妻錦絵 / 広重, 嘉永6(1853) 【寄別1-9-1-2】)

東都名所 ・御殿山花見(品川全図)・(御殿山花見)品川全図 (広重東都名所 / 一立斎広重 : 蔦屋吉蔵 【寄別1-9-2-8】 [国立国会図書館デジタルコレクション])

8) 花見帰隅田の渡し / 英泉, 渓斎英泉 : 川口宇兵衛 【寄別7-2-1-3】 [国立国会図書館デジタルコレクション]

名所江戸百景 飛鳥山北の眺望 (江戸百景 / 広重 : 魚栄, 安政3(1856) 【寄別1-8-2-1】 [国立国会図書館デジタルコレクション])


マリサ
じゃあそっちでやればいいじゃん。


レイム
それはほら、上野が一番有名だったし、「やるな」と言われると反発する人もでてくるものじゃない?


マリサ
まあ、なんとなく気持ちはわかるぜ。


レイム
でね、こうして江戸時代にお花見文化が庶民に広く普及して定着したわけだけど、幕末から明治期にかけてちょっと問題が起きたの。


マリサ
何が起きたんだ?


レイム
廃藩置県とかで江戸の藩邸が消えていったんだけど、このとき江戸時代に園芸種として出来上がった様々な桜の品種が絶滅の危機に瀕したのね。


マリサ
なんでだ?


レイム
ソメイヨシノに関しては明治政府が注目して普及させたけど、その他の品種は重視されなかったので、藩邸などに植えられていた希少な園芸種が次々と切り倒されてしまったの。


マリサ
もったいなくないか?


レイム
そうね、当時もそう考えた人がいたの。
それが駒込の植木職人だった高木孫右衛門さんって人ね。
この人が取り壊される藩邸からせっせと桜を集めて、自分の家に植えて残そうとしたのね。


レイム
そしてこの事を聞いた江北村村長の清水謙吾さんって人が高木さんと意気投合して、荒川の土手を整備する際に、土手にこの保護された桜を植えようって提案したの。
これが後の荒川堤の五色桜なのね。


あだち荒川土手に桜を植える会
http://www.adachisakura.com/index.html
http://www.adachisakura.com/monogatari.html

五色桜四人衆
清水謙吾:江北村村長(1889~1897)「五色桜」の提案者。1840年堀内庄右衛門の次男として生まれ清水家の養子となり、学問に長じ高い見識を持っていました。桜の植樹に付いても当時流行のソメイヨシノではなく、「里桜」にこだわりました。              
 
高木孫右衛門:駒込「梅芳園」の主人。明治維新の際、大名の江戸屋敷は、住んでいた人たちが藩地に引き上げてしまったため、屋敷が壊され、桑畑や茶畑にされました。大切な樹木も伐採され、高木は、残された名木を自邸に集め記録し保存しました。清水謙吾氏とは、旧知の間柄。収集した、さくらの苗78品種3225本を提供しました。こうして、庶民では中々鑑賞できない日本各地の名木の苗木を荒川土手に植樹することになりました。
 
船津清作:清水謙吾塾の門下生。植栽後の維持管理に尽力し、「五色桜」を守った第一人者。国内だけでなく、ワシントンのポトマック河畔やイギリスのケント州への苗木の移送にも関わり、世界を代表する「さくら」の専門家。
 
小清水亀之助:安行の苗木栽培家。船津静作氏と親交のあった松本伝太郎氏の後を引き継ぎ、里桜の苗木を保存しました。第二次大戦中、食料作物を植えるよう命令されましたが、同氏は品種の絶滅を憂え、特別の指定を受け、「里桜」を守りました。1970年の時点で100種程の「里桜」が保存されていました。


マリサ
高木さんすげぇぇぇぇぇぇぇ


レイム
要するに、この人達がいなかったら江戸時代に作られた園芸種の多くが失われていたって事よ。
しかもね、この荒川堤の桜はこの後歴史的な出来事に次々と関わってくるの。


マリサ
何があったんだ?


レイム
この頃ね、日本を訪れたアメリカ人達の間で、「アメリカにも桜を持ってこられないだろうか」という話が持ち上がっていたのね。
で、当時ナショナルジオグラフィックの女性理事だったエリザ・シドモアさんが呼びかけて、ポトマック川河畔沿いに桜の植樹を呼びかけたの、そして最初は拒否されたけどその後も24年間も誘致運動を続けたそうなのね。

ワシントン桜物語 アメリカと日本の友情を深める花
**エリザ・R・シドモア女史**
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/sakura.htm

Eliza Ruhamah Scidmore(1856-1928)
   1856年米国ウィスコンシン州マディソン市に生まれる。兄が横浜領事館に勤務していたこともあり、1884年来日。通信記者としてアラスカや、日本,中国、ヨーロッパで数年過ごす。1907年には日露戦争で捕虜となったロシア人の、松山収容所での人道的な扱いをテーマとする小説を発表。武士道に基づく文化と、桜を愛でる日本人の精神に深く魅せられました。また新渡戸稲造とも親交があった。
 日本での滞在中に、向島の桜に魅せられたエリザはポトマック河畔の埋立地に桜を植樹するための活動をする。


レイム
そしてその話を日本人科学者高峰譲吉(たかみね じょうきち)さんと駐ニューヨーク日本総領事水野幸吉(みずのこうきち)さんが知って、東京市長尾崎行雄さんに話しが伝わり、更にエリザさんの訴えは当時の大統領夫人にも伝わって、桜誘致の一大事業となったのね。


マリサ
なんかどんどん話が大きくなっていくな…


レイム
それでまず1909年8月30日二千本の桜をおくったのだけど、これは輸送中に大量の病害虫が発生してしまって、アメリカに着くとすぐに焼却処分せざるを得なくなったのね。


レイム
それで、病害虫に強い苗木を作るために、当時植木の産地として有名だった兵庫県川辺郡東野村(現伊丹市)の職人達に台木作成の依頼をして、台木につける穂木をさっきの荒川堤の五色桜からとることにしたの。


マリサ
あー、要するに高木さん達の保護活動が現在も続く全米桜祭りに繋がったわけか!

ワシントン桜物語 アメリカと日本の友情を深める花
■ワシントンの桜は伊丹東野産
http://aranishi.hobby-web.net/3web_ara/sakura.htm

 明治の終わり頃、アメリカでは来日経験のある学者や作家たちの間で、日本の桜を讃える声が相次いでいました。「アメリカの人たちにもあの美しい桜を見せたい。」当時の大統領夫人もこれに賛同し、ついには日本政府も動き出しました。
  桜の寄贈を託された尾崎東京市長は早速、桜二千本をアメリカに贈りましたが、ワシントンに到着した頃には、おびただしい数の害虫が発生し、焼却を余儀なくされました。
 再び計画を進めるため、尾崎東京市長農商務省の古在農学博士に、害虫に強い桜の苗木の調達を依頼しました。博士は当時、日本で一番有名な静岡県にある興津園芸試験場で接ぎ木という方法で、丈夫な苗木を育てる計画を打ち出しました。
 穂木は東京の荒川堤の桜並木から取り、そして、病気や害虫の少ない台木づくりは、植木の産地として高い園芸技術をもつ伊丹の東野村に託されました。
 伊丹市の東野村では、村中の人々の努力のかいあって丈夫な台木が作られ、明治43年(1910年)出荷されました。
 こうして興津園芸試験場で接ぎ木された苗木6,040本は、明治45年(1912年)、横浜港から出港され、無事アメリカに到着しました。一本も病気がない苗木に検査官も感嘆の声を上げたそうです。
 日米親善の証である桜はその後、多くの人々の熱意によって守られ、見事に成長していきました。
 毎年ポトマック公園で行われる「桜まつり」では大統領夫人による植樹式や、さくら女王のパレードなどがあり、大勢の人たちでにぎわっています。
 今や桜はワシントン市民にとって、なくてはならない存在となったのです。


レイム
そういうこと。
この東野産の台木と荒川堤の穂木の組み合わせと、当時最新式のガス薫蒸法や苗木の選別が功を奏して、1912年2月14日横浜港より桜苗木6,040本を積んだ「阿波丸」が出航、1912年3月26日に桜苗木はワシントンに到着し、検疫も無事に通りポトマック川沿いに植樹されたのね。


マリサ
なんかすげぇ


レイム
話はここで終わらないのよ。
この荒川堤の五色桜なんだけど、戦中の燃料や堤防工事で切り倒されたり、戦後の高度経済成長期の公害で殆ど枯れてしまったのね。


マリサ
え?そうなのか?
これなんとかならんの?

千住物語 荒川堤の五色桜と日米さくら交流
里帰り桜
http://www.senjumonogatari.com/sakuragosiki.html

(一部抜粋)
一方 本家の「荒川の五色桜」は堤防工事や公害 で残念なことに衰退。
第二次世界大戦後は多くを失い、往年の盛時の影すら見る事はできなくなってしまいました。
1952(昭和27)年 「五色桜」を復活を願った区の希望は聞き届けられ、ワシントン在外事務所を通じて、かつての荒川提の桜が送られ里帰りを果たしました。この桜を接穂とともに全国から再び名桜を集めて育て、72種367本を荒川左岸、本木から鹿浜に至る堤防下に植ましたが全滅。 再度ポストマック湖畔から 里帰りが図られ、昭和56年2月 ナンシー・レーガン大統領夫人から「日米友好親善 桜の特便」として都に送られました。この桜は都知事によって「レーガン桜」と命名されて都立舎人公園内に植樹されました。区でも関係者をポストマックに送って、先の桜から挿木用枝700余本を採取して持ち帰り、区内の公園、学校その他の施設の庭々に植えられ、こんどは枯死することなく春らんまんの花を咲かせています。


レイム
1952年に一度復活させようって試みがあったのだけど、これは結局公害のせいで成功しなかったのね、それで1981年にレーガン大統領夫人のナンシー・レーガンさんの「日米友好親善桜の特便」としてポトマック川の桜が里帰りをして、荒川堤の桜が復活したの。


マリサ
つまり荒川堤の桜は帰国子女なんだな?
英語ペラペラか?


レイム
なによそれ。
まあそれでね、話はここで終わらないの。
実はソメイヨシノっていわゆる接木などで増やすクローンなんだけど、全部同じ遺伝子を持っているので特定の病気に弱いって弱点があるのね。


レイム
で、ソメイヨシノはテング巣病って病気に弱くて、現在日本の北部を中心にテング巣病が大流行してしまっているの。


マリサ
それヤバくね?
下手したらソメイヨシノ全滅なんてこともあるんじゃ…


レイム
そこでね、現在はソメイヨシノは植樹されていなくて、代わりにジンダイアケボノって種が植樹されているの。

春は曙
国民公園協会 2010/04/08
http://fng.or.jp/shinjuku/blogarchive/2010/04/post_0ccb.html

 “アメリカ”という名前の桜があることをご存知ですか?この変わった名前には、深いルーツが隠されています。

 明治後期、日本からアメリカへソメイヨシノが送られ、その実生を育成した桜が、“Akebono(曙)”という名で広まりました。1965年に日本へ逆輸入されましたが、日本にはすでに“曙”という名称の品種があったため、“アメリカ”という名前で呼ばれることとなったそうです。思わぬ逸話があるものですね。

 新宿御苑アメリカは、今がみごろです。開花が早かった新宿門近くの木がひと足早くみごろを迎え、管理事務所近くにある丸花壇そばの木も、つぼみを少し残しつつも美しく咲いています。写真は丸花壇そばの木です。

 ソメイヨシノに由来する品種なので共通した特徴がたくさんありますが、花びらはソメイヨシノよりやや大きく、花色ははっきりとした淡紅色で、華やかな印象の桜です。近くで見ると、花びらの縁に向かってピンク色が濃くなっている様子がお分かりいただけると思います。

 若干残っているピンク色のつぼみが、とてもかわいらしいです。春の青空がよく似合います。



レイム
それでね、こちらの記事を見てもらえば解るけど、ジンダイアケボノのルーツは、アメリカに送られたソメイヨシノと他の種が交雑して出来た桜にあって、アメリカでは「アケボノ」って呼ばれていたんだけど、日本では既にその名前の桜があったので、日本に持ち込まれてから「アメリカ」って呼ばれるようになったのね。


レイム
そして、この「アメリカ」を都立神代植物公園で接ぎ木して育てたところソメイヨシノと良く似たアメリカとは別種の桜になったので、これをジンダイアケボノって命名したの。


マリサ
つまりだ、これも荒川堤からポトマック川沿いに植えられた桜の系譜って事か。
全部繋がってるんだな、なんかすげぇ。


レイム
2009年以降に植えられた「桜」の殆どはこの荒川堤からアメリカに渡って、そこから里帰りしたジンダイアケボノなのよ。


ソメイヨシノの歴史


レイム
まずソメイヨシノという名前なんだけど、元々は江戸時代に「吉野桜」という名前で売り出されていたのね。
命名理由は当時奈良吉野山の桜が最も有名だったからだそうね。


マリサ
元々は名前が違ったのか。


レイム
そう、ただ、明治以降西洋の植物学が入ってきて新たにちゃんと分類してみたところ、吉野山の桜はほとんどがヤマザクラなのに対して、ソメイヨシノにはエドヒガンとオオシマザクラの特徴がある事から、誤解を避けるために当時ソメイヨシノの発祥地とされていた染井村(現東京都豊島区駒込)の名をとって、染井吉野としたの。
これが1901年頃の事ね。


レイム
次にソメイヨシノの歴史なんだけど、最も古い記録としては小石川御薬園(現小石川植物園)の入り口付近に、1750年代頃に植えられていたという記録があるのね。


ソメイヨシノとその近縁種の野生状態とソメイヨシノの発生地
引用文献:筑波大農林研報3:95―110, 1991.
岩崎文雄
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/topics_&_items2/Iwasaki.htm

要旨
 ソメイヨシノの起源の問題を研究するために、ソメイヨシノとその近縁種の野生状態を調査するとともに、ソメイヨシノの発生地の問題にも検討を加えた。野生状態の調査は伊豆半島三浦半島(鎌倉を含む)および房総半島について行った。また、聴き取り調査や各地の図書館の資料などによる社会科学的な分野の調査も行った。その結果、伊豆半島三浦半島・鎌倉および房総半島とも、エドヒガンの野生状態から、ソメイヨシノが自然交雑して生まれたところと推定することができなかった。一方、ソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは、その形質から房総半島由来のものと推定され、竹中の伊豆半島発生説の成立は不可能であると推定された。野生状態の調査結果に社会科学的な調査結果とこれまで著者が行って来た一連の研究結果を加えて検討を行った結果、郷土史研究家などに伝承されていたように、「ソメイヨシノの発生地は江戸・染井」であろうと推定された。また、交雑・育成者は伊藤伊兵衛・政武であり、交雑時期は1720~1735年頃と思われる。
(中略)
e.ソメイヨシノの交雑・育成に関与した人物について
 これまでの調査と研究から、ソメイヨシノは江戸・染井で交配・育成された可能性が強くなったが、小石川植物園の入口近くのソメイヨシノが1765年以前に植えられていたことが推定された(岩崎文夫、「ソメイヨシノおよびその近縁種の形態学的検討」、筑波大農林研報、2:107―125, 1990)ことから、サクラで交雑が起こり、発芽から開花までの年月を考慮すると、ソメイヨシノは1730年頃には生まれていなければならない。1730年頃は自然科学の知識も無い時代である(岩崎文夫、「小石川植物園、上野公園および染井基地などのソメイヨシノ」、採集と飼育、50(4):176―179, 1988)。このような時代に、江戸・染井に交雑を行なうことが出来る入物が存在したかという問題がある。
 このことについて調べた結果、1730年当時、江戸・染井には伊藤伊兵衛の一族だけが植木屋を営んでいたことが知られている。この伊藤伊兵衛については林(林英夫、「豊島区の歴史」、名著出版、東京、1977年)、北豊島郡農会(東京府北豊島郡誌、名著出版、東京、1979年)、川添ら(川添登、菊池勇夫、「植木の里」、ドメス出版、東京、1986年)などによって詳述されているので、ここではソメイヨシノの起源に関連すると思われることのみについて述べる。
 駒込巣鴨の園芸史料(豊島区郷土資料館、「駒込巣鴨の園芸資料」、豊島区教育委員会、東京、1985年)によると、「伊藤伊兵衛は代々、伊兵衛の名を世襲しているが、三代目伊兵衛は通称三之丞と呼ばれ、自称、"きりしま伊兵衛"と名乗り、1710年頃にはツツジの中心的な人物であることを自負し、ツツジ、サツキの人為交配によって新種を作った」と述べられている。麓によると、「元禄時代にはボタンの品種改良が行われていた」と述べられている(麓次郎、「四季の花事典」、八坂書房、東京、1985年)ことから考えると、伊兵衛が交配技術を身につけていたことは推定できる。前田も「1760年頃までは、交配の分野では伊藤伊兵衛の独壇場であった」と述べている(前田曙山:日本園芸研究会編「明治園芸誌」、有明書房、東京、1915年)。
 三之丞の子・政武もよく知られており、三之丞と政武は単なる植木屋では無く、園芸の技術者・研究家であり、各地から集めた花木を交配して多くの新品種・奇種を作り出していた。また日本最初ともいうべき総合園芸書ないし、植物図鑑として高く評価されている一連の著書を残している(第1表参照)。
      第1表 伊藤伊兵衛(三之丞と政武)
     List of books published by Ihei-ITO
錦 繍 枕 元禄5年 1692年 三之丞
花壇地錦抄 元禄7年 1695年 三之丞
草花絵前集 元禄12年 1699年 三之丞
増補地錦抄 宝永7年 1710年 政 武
広益地錦抄 享保4年 1719年 政 武
地錦抄附録 享保18年 1733年 政 武


 伊藤伊兵衛・三之丞、政武の業績に検討を加えてみると、少なくとも1717年頃まではサクラについては関心が無かったようである。伊兵衛とサクラの関係が生じたのは1720年から翌年にかけて将軍吉宗が江戸城から飛鳥山にサクラを移植した時である。この移植には当時将軍家の植木職となっていた政武が関与したことが記述されている(豊島区郷土資料館、「駒込巣鴨の園芸資料」、豊島区教育委員会、東京、1985年)。伊兵衛がサクラに関心を持ったのは、飛鳥山へのサクラの移植のみでなく、1717年長命寺に生まれ爆発的に江戸中に知れわり、物語まで生まれた「桜餅」の葉を取るためのオオシマザクラの苗木の販売も考えたのでは無いだろうか。とも角、1750年頃以降に江戸の各地に植えられたサクラの苗木の供給地は染井であるといわれている(豊島区図書館、「豊島の歳時記」、豊島区、東京、1978年)ことから、伊藤伊兵衛一族が1720年以降にサクラの苗木を育成していたことは確かである。
 一方、前報(岩崎文夫、「ソメイヨシノの起源に関する諸文献の調査結果」、筑波大農林研報、1:85―103, 1989)で述べた小平氏の証言に基づいて、伊藤伊兵衛の家系に検討を加えた結果(第3図参照:略)、ソメイヨシノを作った人は政武になる。一応、三之丞を考えることにしても、林は「三之丞は1695~1711年頃までに死去している」と述べている(林英夫、「豊島区の歴史」、名著出版、東京、1977年)。しかし、西福寺の過去帳で調べたところ1719年に死去しているように推定された。何れにしても三之丞はソメイヨシノの交雑には無関係で、ソメイヨシノの交雑・育成は矢張り政武が関与しているように推定された。船津も「何代目かの伊藤伊兵衛が作ったのかもしれない」と述べている(船津金松、「ソメイヨシノの作出者」、採集と飼育、28(4):95, 1966)。
 そのうえ、1740年頃の観桜はヤマザクラが中心であり、「山桜にあらずんば桜にあらず」という世相の中にあって、幕府の直轄の薬草園(現在の小石川植物園)の入口近くに、名も無い雑種のサクラ(ソメイヨシノ)を植えることができた人物は、将軍吉宗の信頼の厚かった将軍家の植木職、伊藤伊兵衛・政武以外には考えられない。なお、政武は1756年に没していることから、小石川植物園入口近くのソメイヨシノは1756年以前に植えられたものと考える。

レイム
で、この記事にもあるように筑波大学岩崎文雄教授は、この記録からソメイヨシノは当時幕府の信頼の厚かった植木職人伊藤伊兵衛さんではないかと推測していたの。


レイム
この推測はその後ソメイヨシノの遺伝子解析でもある程度裏付けられていたのだけど、最近は「直接の関与は無かったのではないか?」と言われているわ。


マリサ
なんでだ?


レイム
どうもね、伊藤伊兵衛さんは当時名の知れた植木職人ではあったけど、桜に関する彼の記録や著書は無いうえに、江戸時代には染井村以外にも現在の台東区墨田区にも植木屋の多く集まる場所があった事から、「限定できない」と判断されたようね。


豊島区情報サイトまいぷれ
メイヨシノの調査・研究活動について聞きました。
http://toshima.mypl.net/mp/enjoytown/?sid=608 
ソメイヨシノと伊兵衛の関連性は?
ソメイヨシノの発祥地や起源について、これまで多くの人たちにより検証作業が行われ、「染井の植木屋である、伊藤伊兵衛がソメイヨシノを生み出したのではないか?」という仮説が立てられたこともありました。 しかし、植物栽培および植物研究に功績を残した伊兵衛の著作に、ソメイヨシノに関する記述や植物画が見られないことから、現段階では、伊兵衛とソメイヨシノとの直接的な関連性はないと考えられています。 また江戸時代、上駒込村染井のほかに、現在の台東区墨田区といった江戸の中心部からやや離れた地域にも植木屋が点在し、園芸センターとして栄えた街が都内に多く見られます。染井が“園芸の街”として各方面から注目されるようになったのは、この地域の研究がほかよりも一歩早く進んだためという理由があげられます。


マリサ
なんか難しいな。


レイム
でね、ソメイヨシノにはわかっていない事や論争が昔からあって、過去には屋久島のウィルソン株で有名なアメリカの植物学者アーネスト・ヘンリー・ウィルソン博士によって、伊豆半島エドヒガンとオオシマザクラが自然交配したという説が提唱された事があるわ。


レイム
ただ、これに関してはそもそもオオシマザクラは元々「伊豆諸島」にしか自生していなくて、伊豆半島にあるものは江戸時代に人工的に移植されたものだって事が判明したので、現在は否定されているわね。


マリサ
じゃあ結局ソメイヨシノは誰かが人工的に交配したってことが有力ってことでいいのか?


レイム
それはまだ良く解っていないのよ。


レイム
元々ね、江戸時代初期にオオシマザクラが流行っていて、それがあちこちに植樹された結果、各地の桜と交雑した種が多数でてきていたのね。
それで、ソメイヨシノの遺伝子を解析した結果、ソメイヨシノは単純にエドヒガンとオオシマザクラの交雑種ではなく、オオシマザクラヤマザクラの交雑種がエドヒガンと交雑した種であるってことがわかってきたの。

DNAからわかったサクラ品種の真実 ―そのほとんどは雑種が起源―
森林総合研究所 2014年6月16日
https://www.ffpri.affrc.go.jp/research/saizensen/2014/20140616-01.html

サクラは日本人にとって馴染み深い花木の一つで、ソメイヨシノに代表される一重の品種から、八重や枝垂れ、二季咲きのものなど、数多くの栽培品種が存在します。そのサクラ品種がDNAで正確に識別できるようになったことは3年前当研究所からプレスリリースしました。そして、それら215品種がどのような野生種を起源とするのか、この研究で明らかにしました。

枝垂桜(親種エドヒガン)、伊豆桜(親種オオシマザクラ)のように、1種の親から選抜されたものは少なく、多くの品種が(自然も含む)種間交配に由来していました。その代表例がソメイヨシノで、これまでの見解通りオオシマザクラエドヒガンの交雑に由来していることが確認されました。栽培品種サトザクラの仲間は野生種オオシマザクラが元になったと言われていましたが、それ以上のことはこれまでわかっていませんでした。今回の解析により、太白、上匂など多くの品種で野生種ヤマザクラオオシマザクラの交雑によることが明らかになりました。なかには、狩衣のように、「オオシマザクラ」、「ヤマザクラ」、「マメザクラ―オクチョウジザクラ系統」の3種が交雑していると考えられるものもありました。一方、これまで行われてきた形態による分類の結果を覆す発見もありました。長州緋桜という品種は花弁のピンク色が強いことから白いオオシマザクラとピンク色のオオヤマザクラとの交雑起源が推定されていましたが、オオヤマザクラは起源でなく、これまでサクラの品種形成にはほとんど貢献していないと思われていたタカネザクラオオシマザクラの交雑起源であることがわかりました。

サクラの品種の交配親には他にもオオヤマザクラ、カスミザクラ、チョウジザクラの国内野生種やカンヒザクラ、カラミザクラの台湾・中国原産の野生種がかかわっており、サクラの品種が多様な野生種から作られたことを物語っています。こうした成果は、サクラの栽培品種の管理や今後の新品種作出の有用な情報となります。


マリサ
ん?なんかややこしいけど、それがなんで人工的な交配じゃない可能性に繋がるんだ?


レイム
さっきも言ったけど、オオシマザクラはかつて江戸時代に流行した事があって、その結果あちこちに交雑種があるわけだけど、それがどこかでエドヒガンと交雑して、誰かがそれを園芸種として増やした可能性もあるって事。


マリサ
要するに、完全に意図して交配したんじゃなくて、自然に交配したものを誰かが園芸品種として利用したって事か?


レイム
そういう事。
でも結論はまだ出ていなくて、2015年にはこんな論文が出ているのよね。

ソメイヨシノ’の起源を解明
―‘ソメイヨシノ’が人為的に育種され、原木候補を示唆する証拠を発見した―
https://www.nacos.com/jsb/06/06PDF/127th_307.pdf

2. 学会講演タイトル上野公園の‘ソメイヨシノ’原木候補について
3. 発表者
中村郁郎,土屋有沙,高橋弘子,真壁壮(千葉大学大学院園芸学研究科)
(前略)
ソメイヨシノの起源については,「エドヒガンとオオシマザクラ」の雑種であって,自然交雑によって生じたと考えられてきた。しかし,この度,上野恩賜公園にある小松宮像の周辺にあるコマツオトメを含む6本のエドヒガン系樹木の自家不和合性遺伝子の遺伝子型(ハプロタイプ)を解析した結果,ソメイヨシノの兄弟であることが明らかになった。小松宮像は,旧寛永寺の鐘楼堂の敷地に立っているが,兄弟のサクラが自然に敷地の端に等間隔に並んで生えることは考え難いので,この結果は,人為的に交配を行なって得た実生を鐘楼堂の周りに植えた人物がいたことを示唆している。ソメイヨシノの兄弟が植えられていることは,ソメイヨシノの原木も同時に植えられたに違いない。小松宮像の周辺には,4本のソメイヨシノが生えているが,植栽位置を考慮することにより,原木候補を推定することができた。また,ほかの3本と一緒に旧寛永寺の正門に向かってアーチ状に植えられていることは,この人物の育種目標が「群桜に適した品種」であることを示している。
(中略)
本研究の結果,ソメイヨシノの起源が, 従来の仮説の「エドヒガンとオオシマザクラの雑種」ではなくて, 明確な育種目標を抱いた人物が,より複雑で人為的な交雑を行い,ソメイヨシノを選抜したことを示している(第6図).コマツオトメが生えている場所は,旧寛永寺の鐘楼堂の跡地であるので, ソメイヨシノの兄弟の実生を敷地の端に沿って等間隔に植えた人物がいたならば,当然,ソメイヨシノの原木も一緒に植えたと思われる.4本のソメイヨシノ(133, 134, 136, 138) の植栽位置を検討すると, 136番のみが敷地の端に植えられているので,ソメイヨシノの原木候補である可能性が高いと思われる。残り3本のクローンを植えたのは,群桜としての評価および苗木を販売するためのディスプレイ用であったと考えられる。


レイム
この論文によると、江戸時代に桜の名所となっていた寛永寺周辺、現在の上野公園のあたりに、規則的に植えられたと推測できる桜の一群が発見されたそうなのね。


レイム
で、この遺伝子を解析したところ、どれもソメイヨシノと同系統の兄弟にあたる種である事がわかって、規則的に植えられていることや、遺伝的な「近さ」などから、このうちのどれかがソメイヨシノの原木候補で、何者かが人工的にソメイヨシノの「選別」をした証拠じゃないかと指摘されているわけ。


マリサ
これもう確定じゃないのか?
遺伝子的にもほとんど解明されたようなものなんだろ?


レイム
それがそうでもないのよ。
まず、論文にもあるけど樹木医の鑑定ではこの桜はどれも推定樹齢が100年程度と言われているのと、上野の寛永寺周辺って明治維新のいわゆる上野戦争の激戦地だったから、このあたりに「明治維新前」の木が残っている可能性って低いのよ。


マリサ
うーむ。
ということは、現在わかっている結論はどこまでなんだ?


レイム
ソメイヨシノの片親が北関東のエドヒガンであるってことと、もう片方の親がオオシマザクラヤマザクラの自然交雑種であるってこと、それが「江戸時代の」どこかの時期に何らかの「交雑or交配」をして、それが江戸時代中期以降に「吉野桜」という名で接木栽培され植木屋によって売りに出されていたって事までね。

今回のまとめ
・日本において桜は平安時代の国風文化によって今の地位を得た
・現在の花見の文化は江戸時代に普及した
アメリカの桜祭りの桜は荒川堤と兵庫県産、現在ソメイヨシノの代替として植えられているジンダイアケボノはアメリカ帰り
ソメイヨシノが自然交雑か人工交配かはまだ論争中


マリサ
うーん、なんかわかったようなわからなかったような。
桜の歴史はわかったけど、ソメイヨシノはまだまだ謎が多いんだな。


レイム
まあ、このあたりはこの後の研究次第でしょうね。
そんなわけで今回の本編はここで終わるわ。


レイム マリサ
ご視聴ありがとうございました。


大口
おつかれ~


大口
さて、今回も長くなりすぎたのでおまけはありません。
また、今回は特別編ということでカテゴリータグが「自然」でしたが、次回からは「あの国」の名前も出てくるので「政治」タグに戻ります、その点だけご注意ください。


レイム
それじゃあ今回はここまでね。


レイム マリサ 大口
またらいしゅ~



お知らせ。
このニコニコのブロマガの仕様上、コメントが新たにあった事は解るのですが「どの記事にコメントがされたのか」を確認することが困難です。
そこで、もし過去記事に質問等私が何らかの回答を必要とするコメントをされた方は、お手数ですが最新の記事かtwitter@ooguchib」のアカウントのほうへその旨を書いていただけると助かります。



人気ブログランキングに参加中です、もしよかったらクリックをお願いします。


クリックで人気ブログランキングへ


以下は当ブロマガのお勧め記事マイリストです、もしよかったらこちらもどうぞ。





動画版マイリスト