さて、本日は以前リクエストのあった、流鏑馬の韓国起源説について、完全ではないですがある程度調べがついたので記事にします。
(流石にこれ以上引き伸ばすと年を越してしまいそうだったので)
要約
流鏑馬の韓国起源説については、現状在日韓国人を代表する団体である「大韓民国民団」が中心となり起源を主張しているが、そもそもその主張は根本的に理論破綻を起こしている、またこの起源説は韓国本国ではあまりメジャーではない。
ただし、この起源主張をする上での要素には、過去韓国が行ってき様々な韓国起源説に使われた歴史の曲解がいくつも関わっており、韓国にはこの起源説を受け入れやすい土壌が存在している事、最近の韓国によるユネスコへの働きかけに危険な兆候がある事などから、「放っておいても問題ない」というものでもない。
1:民団による起源主張と活動
まずは以下の記事を
古代武芸で韓日交流…高麗郡フェスティバル2014
民潭新聞 2014.11.26
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=19771
第3回「馬射戲」競技、渡来人ゆかりの地で
高句麗装束に身を包み
【埼玉】日本の流鏑馬(やぶさめ)の源流といわれる韓半島古代の武芸・馬射戲(まさひ)の「第3回高麗王杯騎射競技大会」が23日、日高市の小林牧場で開催された。高麗郡建郡1300年記念事業委員会が世界騎射連盟、日本騎射協会、日韓騎射連盟と共催。民団中央本部が特別協力した。
馬射戲はユネスコ世界遺産にも登録された高句麗古墳群のなかの一つ、徳興里古墳の壁画に描かれた騎射競技を現代風によみがえらせたもの。流鏑馬が長弓を用いるのに対し、馬射戲は短弓。しかも、的は60㌢四方、40㌢四方、20㌢四方と、競技が進むにつれ小さくなっていくのが大きな特徴だ。参加選手は200㍍のコース内に30㍍間隔で5つ設置された的を、疾走する馬上から連射しなければならない。
日本から2人、韓国からは女子高生を含む6人が高句麗装束で参加し、大きな的から小さな的まで各2回ずつ演武を行った。見事、的を打ち破ると、観客席から「ウォー」という大きな歓声が起きた。特に60㌢、40㌢の的を各2回ずつすべて的中させたキム・ウソン選手には大きな拍手が送られた。
開会式で高麗郡建郡1300年記念事業委員会の大野松茂会長は、「来年にはアジア大会、(建郡1300年にあたる)2016年には世界大会がこの地で開催できることを望む」とあいさつした。また、世界騎射連盟の金榮燮議長は、「高句麗人が勇猛を競った馬射戲で、韓日間の友情が深まることを期待する」と述べた。
馬射戲(マサヒ)騎射競技大会
一般社団法人 高麗1300
http://komagun.jp/masahi2015/masahi
(一部抜粋)
よみがえる騎射競技
日本の武士のたしなみだった流鏑馬(やぶさめ)。江戸時代の文献に「古く朝鮮半島からもたらされた馬と馬術がそのルーツである」といったことも記されています。
馬術と弓術に長けていたといわれている、いにしえの高句麗人。当時、その訓練を兼ねて行なわれていた騎射競技が「馬射戲〜MASAHI〜」(まさひ)として現代によみがえりました。
高句麗からの渡来人が築いた高麗郡の地で開催
2012年8月、韓国で開催された第8回世界騎射選手権競技会のセミナーで、世界騎射連盟、日本騎射協會、世界武術連盟WoMAU-UNESCOが、検討を重ねた馬射戲の暫定ルールが発表されました。
その初めての演舞が、2012年11月23日に「第1回高麗王杯馬射戲〜MASAHI〜」として日高市で行われました。その後、毎年日韓親善交流大会として開催し、高麗郡建郡1300年となる来年(2016年)は5回目となります。日韓交流を基に渡来文化を象徴するものとして、東アジア大会を目指しています。
また、2017年に韓国で開催される「世界武術オリンピック」で正式種目となる予定です。
まずこれなのですが、世界騎射連盟という韓国の組織が相当に小さい組織のようです。
韓国側でこの団体について調べても、騎射の世界大会なども行ってはいるようですが、それはどれも参加人数が100~200人規模のものしかなく(※1)、そのほかについて調べても韓国メディアが最初に引用した在日韓国人主催のイベントを扱ったものばかりでてきます。
ただし、在日韓国人はかなり支援しており、またユネスコとかかわりの深い韓国系団体「世界武術連盟(WoMAU-UNESCO)」がこの件に深く関与していることなどから、韓国内における知名度は低いが、国際的な政治力があり今後どうなるかは解らない団体です。
特にユネスコに関わっている事は、今回最後に書きますが今後深刻な事態を引き起こす可能性が十分にあります。
2:日本の騎射と朝鮮の騎射の違い
次に歴史的背景としての、日本と朝鮮の弓や騎射の違いにいて書いていきます。
まず日本の弓は全て長弓であり、朝鮮の弓は短弓です、この2つは根本的に扱いかたそのものからして違います。
(日本の平安時代の長弓である伏竹弓)
(朝鮮の典型的な短弓である角弓)
このように外見上も大きく違う日韓の弓なのですが、歴史的に見てもこの2つが「重なった」と考えられる時期がどこにもありません。
まず日本の長弓なのですが、歴史を遡ると縄文時代より長弓を使っていたようで、その後の日本の和弓に比べると短いですが(和弓の基本サイズは2m超)、全長160cmほどの長弓が縄文遺跡から発掘されています。
また弥生時代には、丸木弓と呼ばれる一つの材質でつくられた弓が主流だったようで、これも長弓であり、魏志倭人伝の記述でも「木弓を使用し、その木弓は下部が短く、上部が長くなっている」と書かれており、長弓が独自に進化発展していったこと、また弥生・古墳時代には中国文化の影響もあったことがわかります(※2)(※3)。
また日本における騎射への言及は、日本書紀の雄略天皇記にある西暦456年の記述が最初であり、流鏑馬に関しては、西暦896年に宇多天皇が源能有に命じて制定した弓馬礼法に記述がありますが、どちらにも朝鮮が関わったとする痕跡は存在していません。
では朝鮮で伝統的に使われてきた短弓や騎射はどうかといえば、そのルーツは紀元前8世紀に中央アジアの騎馬遊牧民族であったスキタイ人が始めた物に遡り、これが中央アジアの遊牧民に広く普及し、ツングース系民族を経て朝鮮半島へ伝わったというのが現在の最も有力な説です。
ちなみに、この短弓とそれをつかった騎射技術はユーラシア大陸に広く普及しており、例えば騎馬遊牧民族のひとつであるフン族が、東ヨーロッパのハンガリー平原に定着したという歴史があり、現在でもハンガリーでは「Kassai Lajos」という騎射競技が行われています。
(ハンガリーの騎射競技「Kassai Lajos」)
こうした中央アジアの騎馬民族をルーツとする騎射技術が、日本にまで伝わったのかどうか、その辺りの事は考古学上判明していません。
ですから当然「騎射が朝鮮から伝わった」という説も成り立ちませんし、なにより弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島を経ないで大陸文化が伝わった事が解る考古学的発見も相次いでいる事から(※3)、弓の種類の違いなどの事もあり、朝鮮の馬射戲が流鏑馬のルーツという説は成立しません。
3:起源主張の間違い
まずそもそも、高麗1300や民団が主張している流鏑馬の起源主張に関して、江戸時代の文献というのがどんなものなのか、調べてみましたがまるで解りませんでした。
そもそもそんなものがあるのかどうかすら疑問です。
ただし、彼らの主張のベースとなっているものは発見できましたので、その辺りについて書いていきます。
江戸時代の仙台藩の岩淵家、及川家、草苅家の三家が古流馬術の「高麗流」を名乗っており、この流派に騎射の技術がある事から、恐らく「江戸時代の文献に古く朝鮮半島からもたらされた馬と馬術がそのルーツである」というのは、この高麗流からの解釈ではないかと思われます。
しかし実態は、この高麗流はそもそも高麗や高句麗と何の関係もありません。
高麗流は正式名称を高麗流八条家馬術と言い、古流馬術流派の一つである八条流の分派の一つが、武蔵国高麗郡と呼ばれた地域に分派し独自発展した流派であり、要するに「高麗流」は地域名でしかありません。
そしてこの八条流も更に元を辿ることができ、そのルーツは甲斐源氏の小笠原流に行き着きます。
高麗流のルーツとは、小笠原流馬術を学んだ八条近江守房繁が八条流を開き、更にそこから学んだ加治氏(高麗郡加治郷に定着し加治氏を名乗った一族)が高麗八条流を開いたという経緯です。
元を辿れば小笠原流馬術なのです。
ただしここからが問題で、小笠原流開祖である小笠原長清の祖先は清和源氏の一族であり、韓国において「清和源氏は百済系」という韓国起源説が普及しています。
この韓国起源説の元を辿ると、天皇の「ゆかり発言」にたどり着き、この発言は百済系帰化人10世の高野新笠が天皇家に嫁ぎ、その子供が後の桓武天皇となったので「百済とゆかりがある」とした物です。
そして清和源氏は、桓武天皇以後の天皇家の系譜から枝分かれしたという経緯があります。
この系譜が韓国で曲解され、「天皇は百済系」というトンデモ説となり、更に清和源氏の源義光が新羅神社で元服し新羅三郎と名乗った事が、韓国で侍やら柔術やらの起源にこじつけられた経緯などもあり、民団が流鏑馬の起源主張をしている以上、今後在日韓国人達が組織的に「小笠原流は百済系」と起源主張をする可能性は十分にあり得るのです。
4:馬射戲復元の疑問点
次に朝鮮の伝統的騎射であるとしている馬射戲に関してなのですが、これを彼らは「復元した」としている事にも、実はかなりの疑問があります。
以前より何度か書いて来ましたが、朝鮮における現存する最古の歴史書は12世紀に書かれた「三国史記」であり、それ以上に古い解読可能な文献は存在していません(木簡がいくつか発掘されていますが、現代語訳はできていない状態です)。
ですので、朝鮮における12世紀以前の歴史を知るためには、三国史記に書かれていることか、或いは日本や中国の文献にあたるしかないわけですが、そもそもそれらに「馬射戲」に関するものがありません。
しかし日本騎射協会公式HPによると『韓国に本部を置く世界騎射連盟、WoMAU-UNESCOと日本の日本騎射協会では、この「馬射戲図」を現代の騎射競技として復活させるべく検討を重ねた結果、正式に「馬射戲 MASAHI」と命名し、あらたにルールを定めました』となっています(※4)。
彼らは一体何をどうやって「復活」させたのでしょうか?
まさかこの絵に書かれているもののみを根拠にしたのでしょうか?
(高句麗古墳群のひとつ徳興里古墳の「馬射戲図」、クリックで拡大します)
更に疑問があります。
2010年、韓国の聯合ニュースが「朝鮮で80年以上前に失われた朝鮮弓が靖国神社で発見された」と報じます(※5)。
記事では、韓国には練習用の弓しか現存しておらず、韓国の弓の専門家ですら今回始めて実戦用の弓の現物を見たとしており、つまりは現代の韓国には、過去の朝鮮の弓を復元できるだけの歴史史料が存在していなかった事が解ります。
そして更にどこを探しても、馬射戲の復元に靖国神社の遊就館の朝鮮弓を参考にしたという言及が出てこないのです、彼らは一体なにを元に「復元」したのでしょうか。
このように、馬射戲の復元という行為そのものが謎だらけなのです、もし仮にこの復元が馬射戲図のみを参考にしたのならば、当然のことですがそんなものに歴史的価値も伝統もありません。
手口が侍や刀の起源を主張している韓国の詐欺団体、大韓剣道会や海東剣道と同レベルという事になります。
5:今後警戒しないといけない事
最初の方で書きましたが、この流鏑馬の韓国起源説には、ユネスコと関係の深い韓国系団体が関与しています。
また先ほども書いたように、現在韓国内ではこの起源説の知名度が低いですが、「天皇の韓国起源説」とも関わる内容である事から、韓国メディアで報じられると一気に広がる可能性が十分にあります。
そして何より、在日韓国人が深く関わっている以上、韓国側から良心的日本人と呼ばれている日韓友好論者も相当にこの件に深く関わっているでしょう。
これ等の要件を複合すると、現在の韓国が行っているユネスコへの働きかけと相まって、これまでの韓国起源説よりももっと悪質な行為が行われる可能性があります。
それは、ユネスコへの複数国による共同登録です。
現在韓国は、「綱引き」を東南アジア諸国などと一緒に無形文化遺産へ共同登録しています(※6)。
これ自体は特に問題ないのですが、これと同じ手法で、民団や韓国政府が日韓友好論者と共に流鏑馬と馬射戲を同じ「騎射」として、日本での大会実績などを根拠に共同登録したらどうなるでしょうか。
彼らは流鏑馬の起源を馬射戲としており、更に何でも韓国の言う事を肯定してくれる日韓友好論者とともに日本国内でイベントまで開いています。
日本側で流鏑馬の韓国起源説を受け入れる人々が、ユネスコへの働きかけを主導したら、なし崩し的に「共同登録」され、韓国起源説の既成事実にされてしまう可能性は十分にあります。
そもそも民団は、日本のメディアと組んで、自分達に否定的な相手を「排外主義者」とレッテル貼りする傾向にある事から、どんなにその主張が学術的に間違っていても、メディアの力で批判を全て「極右の差別主義者がやっていること」と捻じ曲げ国際的に宣伝する事が可能です。
民団が深く関与していると言う事は、韓国の官民挙げての起源主張とは、また違った厄介さがあるのです、だからこそこの問題は、韓国内での知名度は今のところ低いですが、他の韓国起源説同様に、多くの日本人が知って問題意識をもたないといけません。
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(※1)
束草永郎湖、「第11回世界の騎射選手権大会」
Break News(韓国語) 2015-09-24
http://m.2018breaknews.com/37804
「騎射の歴史性無形文化財登載方案」学術セミナー並行
新羅の壁画「ヨウンラン」の息吹が生きている永郎湖画廊体験観光地で10.2(金)〜4(日)まで、世界中の騎射人のフェスティバル祭りである「第11回世界の記事選手権大会」が開かれる。
今回の大会は、「人類の無形文化遺産の記事」というテーマで、世界の記事連盟と世界武術連盟が主催して(社)韓民族の伝統馬上武芸・撃毬協会(会長キム・ヨンソプ)が主管する行事として、13カ国で150人の選手団が参加その間磨きあげた技量を競うようになる。
大会種目は韓国を中心に復元された韓国型の騎射種目である朱色、速射、連続社種目が行われ、萩区を作って革で包んボールを1人が馬に乗ってドラッグすると、後ろから馬に乗った騎士が弓を射るボールを合わせるモグ試合と馬に乗って江西省というままを利用して、ボールを打って相手のドアに入れる馬上撃毬体験中東地域の記事方式である試合など多様な見どころを提供する予定である。
一方、大会前日の10.1日には「の歴史性無形文化財登載方案」というテーマの学術セミナーが開かれ、私たち独自の「伝統マ(馬)文化」に対する体系的な保存と継承・発展方案について議論する時間も持つ計画だ。
束草市関係者は、「今回の大会に参加する多くの外国人選手が束草の多様な観光資源を接しても、今回のイベントが文化交流の場として定着できるように努める計画」と市民の多くの観覧と参加を呼びかけた。
ユネスコ後援「世界の騎射選手権大会」開催
スポーツ朝鮮/朝鮮日報(韓国語) 2011-08-03
http://sports.chosun.com/news/news.htm?id=201108030100025910001944&ServiceDate=20110803
第7回世界の騎射選手権大会が、ユネスコ(UNESCO)の公式スポンサーで13日から4日間江原束草永郎湖画廊体験観光地で開かれる。
(社)世界武術連盟(総裁ソビョンヨン)が共同主催して韓民族の伝統馬上武芸 - 撃毬協会が主管する今回の大会は、韓国をはじめ、米国、英国、トルコ、日本、マレーシア、イランなど10カ国以上の100人余りの選手が参加する予定である。
2005年「第1回国際記事大会」で始まったこの大会は、今年から性格を昇格して「世界の騎射選手権大会」に名称を変更、開催することになった。 特にユネスコ公式業務関係NGOの世界武術連盟(WOMAU)と大会を一緒に開催することにより、武術種目の大会では、唯一、ユネスコ公式後援大会になった。
今回の大会では、言葉を走って標的に向かって弓を射るの騎射大会(単糸、速射、連続射、団体戦)とモグ(毛毬)団体戦が開催され、中東、アジア地域の伝統的な記事競技であるクアバーク試合が昨年の試験の大会に続いて、今年から正式種目に開かれる。 また、国際記事大会国際審判教育と学術セミナーだけでなく、伝統文化公演と伝統武芸試演も付帯行事として開かれる。
ユネスコ公式スポンサーと関連して、世界の記事連盟(議長キム・ヨンソプ)は、「世界の武道連盟側からユネスコが送信した公式文書で通知受けた」とし「これにより、人類の文化遺産的な記事(騎射)が「世界文化遺産」としての価値を認め受ける一歩近づいた」と述べた。
一方、韓民族の伝統馬上武芸 - 撃毬協会は、私たちの伝統的な馬上武芸を伝承する団体で、毛球を国際競技化して、欧州選手権種目に進入させた。 さらに馬上武芸をユネスコの世界文化遺産に登録するための様々な努力も展開している。
(※2)
京都府日向市歴史・観光サイト
http://www2.city.muko.kyoto.jp/rekimachi/rekishi_bunkazai/bunkazai/shiteibunka/muko/1441755470924.html
向日市の文化財 森本遺跡出土弥生時代丸木弓
「森本遺跡出土弥生時代丸木弓」は、森本遺跡出土弥生時代銅鏃と同様に出土しました。断面は円形に丹念に削りあげているが、加工の際の綾線を僅かに残しています。
公益財団法人 全日本弓道連盟
http://kyudo.jp/contents/code/ab2
日本の弓
世界の弓の歴史は古い。旧石器時代末期には中近東アジア地方の民族により使用されていたという。
日本においても石器時代の弓と思われるものが発見されている。弥生式土器使用の時代と推定され、黒塗りの丸木弓の長弓で樺で隔巻してあったという。また石器時代末の製作といわれる銅鐸に狩猟の絵があり、これも長弓で「握り」が下部に描かれている。
中国の魏志の倭人伝にも、日本人の使用した弓は長弓であることが記されている。このことは古事記等から思想的意義、文化的意義を推察するに、威儀の行装として弓矢が重い位置を占めていたと考えられる。これが後に宮中や武家行事に弓矢の儀式が重視される淵源となった。
中国文化の影響
中国では弓についての文献は多く、周礼や後漢書、ことに礼記の射義の思想は日本の弓に大きく影響した。中国との交流は4・5世紀頃、応神天皇以降であるが、日本文化への影響は多く、弓に於いても、日本の古代からの弓矢の威徳の思想と、中国の弓矢における礼の思想は、朝廷行事としての射礼の儀を生み、武家時代には弓矢を通じての礼の思想となった。中国の「射をもって、君子の争いとなす。」という射礼思想である。これがやがて日本固有の武家思想と結びついてゆく。
平安時代の中頃(10世紀)に現われた伏竹弓、平安末期(12世紀)にできた3枚打等は、中国の合成弓製作の技術を取り入れ、竹と木の合成弓にしたものである。
(※3)
中国・戦国時代の矢尻が出土=国内初の型、弥生期の集落跡で—岡山
yahoo/時事通信 2013年 1月23日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130123-00000163-jij-soci(リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20130126112151/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130123-00000163-jij-soci(ウェブアーカイブ)
岡山市教育委員会は23日、弥生時代中期に当たる紀元前2世紀ごろの集落跡「南方遺跡」(岡山市)から、中国・戦国時代の紀元前4〜5世紀ごろに同国で鋳造されたとみられる青銅製の矢尻が出土したと発表した。市教委によると、「双翼式銅鏃(そうよくしきどうぞく)」と呼ばれる型で、日本国内での出土は初めて。市教委は、当時の日中間の交流を知る上で、貴重な発見としている。
出土した矢尻は、長さ3.7センチ、幅1.4センチ、重さ3.7グラム。全体的に平たく、先端から左右に分かれた「翼」部分が、末端に向かって長く伸びているのが特徴という。
市教委によると、同型の矢尻は中国本土では、戦国時代の7国のうち「燕」や「魏」の遺跡から出土しているが、数は非常に少ないという。戦闘用ではなく、儀礼用だったとみられる。
謎呼ぶ短剣、柄の先に二つの輪 滋賀・上御殿遺跡で鋳型
yahoo/朝日新聞デジタル 2013年8月9日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130809-00000006-asahi-ent(リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20130812173935/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130809-00000006-asahi-ent(ウェブアーカイブ)
【郡司達也】滋賀県高島市の上御殿(かみごてん)遺跡で、弥生中期から古墳前期(紀元前350年〜紀元300年)とみられる、国内初の双環柄頭(そうかんつかがしら)短剣の鋳型が見つかった。県文化財保護協会が8日発表した。
柄の先に二つの輪が付き、剣身が直線状のデザインは朝鮮半島でも出土例がない一方、春秋戦国時代(紀元前8〜同3世紀)の中国北方騎馬民族が使った「オルドス式短剣」と類似している。伝達ルートなど当時の青銅器文化に一石を投じる発見だ。
鋳型はシルト岩製で、2枚が重なった形で出土。いずれも長さ約30センチ、幅約9センチで厚さは4センチ前後。柄と剣身を一度に鋳造するタイプだが実際に鋳造した痕跡はなく、短剣自体も出土していない。
短剣は柄の先に直径2・3センチの二つの輪を持ち、剣身は直線。鍔(つば)がなく、柄に国内の銅鐸(どうたく)に多い幾何学模様の「複合鋸歯(きょし)文」や「綾杉(あやすぎ)文」があった。
青銅器の短剣は国内では北部九州や瀬戸内地方を中心に出土例があるが、剣身にくびれがあり、柄の部分と別々に鋳造している。
小田木治太郎(おだぎはるたろう)・天理大准教授(考古学)は「中国北方の短剣をベースに国内で作られた可能性が考えやすいが、伝達ルートは不明。背景を語る資料がないか、東アジア規模で注目する必要がある」と話す。
〈オルドス式短剣〉 春秋戦国時代の中国北方(現在の河北省北部、北京北部、内モンゴル中南部)で使われていた青銅製の短剣。柄頭には向かい合う2羽の鳥をモチーフにした二つの輪がある。剣身が直線的で、全体を一体として鋳造するのが特徴。
(※4)
日本騎射協会
現代の騎射競技【馬射戲 MASAHI】
http://mgl-f.sakura.ne.jp/masahi.html
2004年にユネスコの世界遺産に登録された高句麗古墳郡の壁画には、人物、舞踊、相撲、天文、四神、行列など、当時の高句麗人の文化や風俗、信仰などが克明に描かれています。
そのなかで、徳興里古墳の「馬射戲図」(408)とよばれる壁画は、騎射競技を描いた最古のものとされています。
韓国に本部を置く世界騎射連盟、WoMAU-UNESCOと日本の日本騎射協会では、この「馬射戲図」を現代の騎射競技として復活させるべく検討を重ねた結果、正式に「馬射戲 MASAHI」と命名し、あらたにルールを定めました。
(※5)
“朝鮮の魂”が靖国神社に横たわっていた
聯合ニュース(韓国語) 2010/12/03
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2010/12/03/0906000000AKR20101203162200073.HTML
「よく『朝鮮は弓、日本は刀』というが、いざ実際に戦闘で使われた弓は見たことがなくてもどかしかったんですよ。これまで朝鮮弓の優秀性を話そうとすれば、手弩(特殊な形の実戦用の弓)の話をやむを得なかったが、今日、初めて(本当の朝鮮の弓を)見ました」
京畿道坡州市にある楹集弓矢博物館で、重要無形文化財第47号のユ・ヨンギ氏とともに、朝鮮弓の復元に熱中してきた息子のユ・セヒョン氏は3日、聯合ニュースが日本,東京の靖国神社の遊就館で撮影した朝鮮弓の写真を見た後、多少浮き立った声でこのように話した。
ユ・セヒョン氏が、この弓が国内では姿を消した朝鮮時代の実戦用の弓だと断定する根拠は、比較的単純だった。弓の表面に黒く塗られているのは漆を塗ったと見られ、糸などで巻いた跡がはっきりしているという点。
なぜこうした特徴が、練習用の弓と実戦用の弓を分ける基準になるのだろうか。
朝鮮弓の特徴は、角と山桑などを切って貼り付けてつくるという点だ。小さくて丸い形の朝鮮弓は、世界的にも最高水準の弓という評価を受けるが、弓に弦を長い間張っていると弓が割れやすいという短所がある。このため、練習用の弓は射った後には必ず弦をはずして保管するものである。だが、実戦用の弓はそんなことができないため、糸を何回も巻いて強度を補強し、その上に漆まで塗った。
軍事編纂研究所のキム・ビョンリュン客員研究員と戦争記念館のパク・ジェグァンチーム長は、弓の両側の端が折れる形や弓弦がかけられる“ドンコジャ”という部分の形も練習用の弓とは違い、実戦用の弓だと指摘した。
それでは、こうした朝鮮の実戦用の弓が、なぜ国内には残っておらず、日本に渡ることになったのだろうか。
これに対してユ・セヒョン氏は、弓の特性上、8年以上使うことは難しいという点を上げた。特別に保管しない限り、あれこれと傷みやすいのが弓というもの。
キム・ビョンリュン研究員は、朝鮮時代末期の軍の制度の改編と日帝強占期の体系的な回収過程を経て、弓をはじめとする朝鮮時代の武器が姿を消したと説明した。
日本に渡った経路は、いろいろと推測することができる。
戦争記念館のパクチーム長は、「旧韓末~日帝強占期にわたり様々な経路を通じて搬出されたため、簡単に断定することはできない」として「当時、景福宮をはじめとする様々な武器庫に軍で使っていた伝統武器があったため、搬出されやすい状態だった」と説明した。
一部では、日本が1875年の雲揚号事件当時、朝鮮の永宗鎭から略奪した軍事遺物が、遊就館の倉庫に所蔵されているのではないかと推測したりもする。
しかし、キム研究員は、「日帝強占期に遊就館に展示された遺物を撮影した写真を見ると、朝鮮時代の弓と矢、盾を撮ったものと槍類の武器を集めて撮ったものがあるが、この中で槍類の武器にだけ『雲揚号戦利品』という説明がついていた」という点を根拠に、そうした可能性は大きくないと指摘した。
朝鮮弓術研究会が1929年に出版した『朝鮮の弓術』で絶滅したと書かれた朝鮮時代の実戦用の弓が、少なくとも81年ぶりに再び姿を表わしたのにはどんな意味があるだろうか。
パクチーム長とキム研究員は、「写真だけでも朝鮮の武器発達史の研究に貴重な資料として活用されるものと見られる」と話した。
自ら弓の復元作業をしてきたユ・セヒョン氏は、それ以上の意味を付与した。
「朝鮮弓が最高であることはあるが、残っているのは練習用の弓だけだったんです。一方、外国の弓は多様でないですか。私たちも、もう朝鮮時代に練習用の弓のほか、実戦用の弓が別に存在していたと確信することができるようになったのです。」
専門家たちが付与する意味は各々違うが、“朝鮮の弓”、いや“朝鮮の魂”が日本のどこかに残っているということに対して安堵する気持ちは同じようだった。
(※6)
韓国の「綱引き」もユネスコ世界文化遺産に
2015年12月03日08時26分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
http://japanese.joins.com/article/211/209211.html
韓国のチュルダリギ(綱引き)が2日(現地時間)、ユネスコの世界無形文化遺産になった。アフリカ南西部ナミビア共和国の首都ウィントフックで開かれた第10回無形文化遺産政府間委員会でチュルダリギは委員国の過半数の支持を得た。これで韓国は2001年の「宗廟祭礼および宗廟祭礼楽」以降、昨年の「農楽」まで無形文化遺産18件を保有することになった。
チュルダリギ(Tugging rituals and games)は韓国とともにカンボジア・フィリピン・ベトナムなど東アジア4カ国が共同登録されて、さらに意義が大きい。アジアのチュルダリギは稲作と密接な関係にある遊び・儀礼で、東北・東南アジアに集中分布している。農作業に必要な雨乞いや豊作を祝う感謝祭の時に広く行われた。4カ国のチュルダリギは、2つに分かれて互いに向かい合って綱を引くという点では似ているが、各国の気候や環境によってそれぞれ違った特殊性や独自性、創造性を持った民俗遊びだ。
今回登録された「チュルダリのギ儀礼と遊び」は、韓国が初めて試みた多国による共同登録で、さらに意義深い。国家中心の単一遺産を超えて次第に重要になりつつある人類共有の遺産の概念を韓国が引き出したからだ。文化財庁(ナ・ソンファ庁長)はこのため2012年から東南アジア各国の参加を促しながら国際学術シンポジウムを開催し、政府間会議を開いて登録申請を共に作成した。一方、済州(チェジュ)の海女文化は来年に登録の有無が決定される。