日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

日本と韓国では「和解」の意味が違う


さて、今回はタイトルにもあるように、日韓で異なる和解という単語の意味と認識の隔たりについて、3つの要点を中心に書いていくこととします。


要点は
・韓国人の和解の定義と永久謝罪のロジック
・架空の物語の創作
・現代の韓国人の心理

です。


特に最近、日本のメディアなどでも日韓の関係改善や和解について様々な意見が出てきているわけですが、それを見ていて思うのは「それは日本人の価値観による和解でしかなく、それでは本質的にに解決した事になっていない、単なるその場しのぎの誤魔化しでしかない」という現実があります。


同じ「和解」という単語を使っていても、その背後にある意味が全く違えば、当然お互いの認識の違いからすれ違うばかりで、双方合意の上での「和解」などありえないわけです。
ですのでまずお互いが相手の定義する「和解とはどのような状態の事を指すのか」を知らなければいけないのですが、現状それが全く出来ていません。


つまり、和解ができる出来ない以前の問題として、お互いにそもそもスタートラインになく、双方が全く異なる認識の元で問題の解決にあたろうとしているわけです。
しかも、特に日本側で友好や和解を進めようとする人々の大部分は、明らかに韓国側の要求が一般的な日本人の価値観的に受け入れられないものにも関わらず、そういったものを隠したり誤魔化したりして話を進めようとする傾向にあるので、余計に問題がこじれていきます。


だからこそ、本来は「韓国側がどんな状態を和解と定義しているのか」を知るのが重要なのです。
その結果がどのようなものになろうとも、隠蔽と誤魔化しで見かけ上「和解したこと」にするよりかはずっと健全だからです。


まずは「韓国人の和解の定義と永久謝罪のロジック」から


ワーテルローの戦い」から200年、ナポレオン子孫らが握手
ロイター 2015年 06月 19日
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0OZ0WU20150619
ワーテルロー(ベルギー) 18日 ロイター] - ベルギー中部ワーテルローで18日、フランス皇帝ナポレオンを英国やプロイセンなどの連合軍が破った「ワーテルローの戦い」から200年が経つのを記念し、式典が開催された。

式典はベルギーのフィリップ国王とミシェル首相が主催。ナポレオンや英国のウェリントン公爵らの子孫が集まり、笑顔で握手を交わした。


この英仏の間で行われた式典なのですが、これは我々の価値観から見ても間違いなく「和解」でしょう。
恐らく多くの日本人にとっても、日韓で和解をするのならばこのような形が望ましいと考える人が多いのではないでしょうか。
そして、恐らく韓国人に聞いても「このような和解ができれば良い」と答える人が多いでしょう。


「いきなりこいつは何を書いているのだ?認識に違いなんて無いじゃないか」と思われる方もいるでしょう。しかし、実は韓国人がこう答えたとしても、実際に行うとなると全く別物になるのです。
そこには以前書いた「「韓国に対して謝罪すれば解決する」は大きな間違い」に関係する、韓国人の価値観が深く関わっています。


それを知ってもらうために、過去日韓の間で行われた「和解」行事を紹介します。


日本市民団体、密陽表忠寺探して壬辰倭乱反省集会
東洋日報(韓国語) 2015.03.3
http://www.dynews.co.kr/news/articleView.html?idxno=252968
(東洋日報)日本の市民団体が16年目の訪韓で侵略の歴史を反省する集会を開いた。日本近代史研究家、在日僑胞牧師、各種市民団体代表などから構成された'NO MORE倭乱集会実行委員会'会員20人余りは30日午前11時、慶南(キョンナム)密陽市(ミリャンシ)表忠寺(ピョチュンサ)を訪問して壬辰倭乱を反省する集会を開催した。
(中略)
団体会員たちは「壬辰倭乱と近代朝鮮侵略を起こした要因を捜し出して克服しなければならない」として「'韓半島の歴史は日本の歴史の真実を照らす鏡'という認識により、日本の正しい歴史観を確立する必要がある」と強調した。

川本良明実行委員長は「400余年前の歴史(壬辰倭乱)が韓国では今日の問題と深刻に受け入れられていることに驚いた。今後も韓国で壬辰倭乱の遺跡を訪ねて歴史を深く反省することを継続していく」と話した。
(後略)


壬辰倭乱日本軍総司令官17代孫「先祖の代わりにお詫びします」
2007年05月14日11時15分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
http://japanese.joins.com/article/435/87435.html
(前略)
四人は西厓の14代宗孫であるユ・ヨンハさん(81)と壬辰倭乱当時朝鮮を侵略した日本軍急先鋒小西行長の17代子孫である小西尊徳さん(73)、朝鮮を支援した明の武将李如松の 13代子孫である李士革さん(41)、栗谷李珥(ユルゴク、イ・イ)の15代宗孫であるイ・チョンヨンさん(65)。戦争当事者である韓日中の武将の子孫の和解に続き、四色党派に分かれた東西間も一緒に和解しようという意味だ。
(中略)
壬辰倭乱当時、日本総司令官を務めた宇喜多秀家の13代子孫浅沼秀豊さん(53)は和解の火の前で「先祖の代わりに心よりお詫びする」と見事な韓国語で頭を下げ、行事場所をおごそかで静粛にさせた。

小西尊徳さんは「豊臣独裁者の野心のため朝鮮に苦痛を与えた先祖も戦争後、首を切られたし、子孫たちはばらばらと散らばってなんとか子孫を残した」と述懐した。また「多くの方が温かく接してくれたのでありがたい」とし「こんな集まりが隣りの両国間に友好を深めるきっかけになるように願う」と言った。

李士革さんと参加した李如松の13代孫である李沢綿さん(46)は「柳成竜先生の思想は貴い資産になって子孫たちに大きい影響を及ぼす」と明らかにした。
(後略)


一体何百年前の事で謝罪をやっているのかと呆れる人もいるかもしれませんが、韓国ではこういった文禄・慶長の役関連の行事が毎年行われ、毎年何らかの日本人が「謝罪」を行っているのです。
つまり韓国人にとっての「和解」とは、以前書いた「謝罪」の件の延長線上、「永遠に日本が謝罪し続け韓国人がそれをその都度許す」という状態のことなのです。


当たり前の事ですが、これは日本人的価値観では和解ではありません。
しかし、自己の優越性や正当性を他者の劣等性を担保にして成り立たせる価値観が一般的な韓国では、これこそが和解なのです。


彼らは彼らの中の「絶対的正義」を大前提としています、そしてそれを証明するために日本側の劣等性の証拠、つまり日本側が落ち度を認めて「謝罪し続ける」事が必要であり、それをその都度「許してやる」という行為が彼らの中で必須なのです。
相手の劣等性が無ければ彼らは自己の絶対的正義を証明できないからです。


そして、最初の方で「恐らく韓国人に聞いても「このような和解ができれば良い」と答える人が多いでしょう」と書いた事もこれが関係します。
韓国ではこのような考え方が一般的であり、それ以外の発想が原則存在しません。


ですから、最初の英仏の式典を韓国人の視点で解釈すると、「どちらかが一方的に悪く相手に謝罪し許しを請う式典なのだ」となるわけです。
彼らにはそれが当たり前ですし、謝罪も無いまま「過去の事は水に流そう」という態度は、彼らの価値観における道徳に反する行為であり、理解の範疇の外なのです。


次に「架空の物語の創作」を


【天地日報-日本侵略史]伝統衣装染色強要(1932年)
天地日報(韓国語) 2015.05.14
http://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=290332
[天地日報=キム・ヒョンジン記者]日本は私たちの伝統文化を抹殺するために白衣民族だった私たちに白い服の代わりに色のある服を着るよう強要した。
白い服に固執すると、強圧的に墨汁と万年筆の染料をむやみにばら撒いて白い服を着られないようにした。
写真はこれと関連してあるキャンペーン行事を行っている。右側の垂れ幕には'色服奨励'、左側の垂れ幕には'白衣退散'と書かれている。
白い服を着ることが何の罪だろう。私たちの先祖の魂まで抹殺しようとした日帝の悪賢い計略だ。
(写真提供:チョン・ソンギル名誉館長)



これなのですが、韓国では非常に一般的な認識で度々民族主義の鼓舞とセットとなって語られる内容です。
現在の韓国では、「過去朝鮮では誇りを持って白い衣装を着ていた、民族の誇りとしての白衣であり、だからこそ白衣民族なのだ、日本はその民族の誇りを傷つけるために禁止したのだ」といった具合です。


しかし史実は大きく異なります。
李氏朝鮮は民間の商行為を厳しく取り締まったため、民間レベルの産業が数百年の歴史の中で完全に廃れてしまい、手間と費用のかかる染色技術が一切普及せず一般人は染色された衣服を手に入れる事ができなかったのです。


その後日本による併合で近代化されると、染色された衣服を一般人も手に入れる事ができるようになった結果、染色されていない衣服は「近代化から立ち遅れた貧乏人の象徴」として忌避されるようになり、逆に染色された衣服は近代化の象徴とされた、ただそれだけの事なのです。
これが真相です。


そのうえ、現在「한복(韓服)」でgoogleの画像検索をするとこんな状態になります。




「白衣民族どこ行った」と突っ込みを入れたくなりますが、彼らの民族主義としての「かくあるべき」ではそういう事になっており、異論を挟んではいけないことになっているのです。
そして、韓国人の中ではこれも「日本が反省すべきこと」であり、永久に続くべき謝罪に含まれています。


要するに民族主義の発露として作り出された比較的新しい架空の物語が、彼らの中では日本人が反省し謝罪し続けなければいけない事に組み込まれており、こういったものを日本人が無条件に受け入れる事ができなければ、彼らの中では和解などありえないのです。
しかもこういった民族主義の発露による「物語の創作」は現在進行形で続けられており、今後も増え続けるでしょう。


最後に「現代の韓国人の心理」です


【コラム】「あんた、気に入らない」がまかり通る韓国社会
朝鮮日報 2015/05/03
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/05/02/2015050200558.html(リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20150503175208/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/05/02/2015050200558.html(ウェブアーカイブ
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/05/02/2015050200558_2.html
http://web.archive.org/web/20150503175306/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/05/02/2015050200558_2.html
(前略)
それは、韓国社会の「処世論」の核心を突いているからだろう。ある企業で昇進候補者Aさんをめぐり、幹部たちが意見を交わしていた時のことだ。ある役員がAさんに対し、「仕事の達成度が不十分だ」と指摘した。すると社長が言った。「でもまじめじゃないか。私は気に入ったよ」。昇進という言葉は、次のように定義すればいい。「業務遂行能力、職務に対する理解度や取り組み方、上司・部下・同僚との関係など、さまざまな変数を総合的に考慮した上で、社長が自分勝手に選ぶ」。「気に入った」というのは「能力が優れている」「仕事を熱心にする」「ビジョンがある」というのと同じ言葉ではない。それにもかかわらず、「あいつはいいんじゃないか」「好きか嫌いか」というあいまいな感情が「客観的」な評価や証明よりも優先される。
(中略)
では、なぜ「気に入る」ことがそれほど重要なのだろうか? 「気に入る」の反対語は「目に入らない」だろう。入るのは自分の味方、入らないのはあっちの味方=敵だ。「あなたのことが気に入った」というのは「私たちは味方同士」という意味だ。数年前から子どもたちの間で「義理のお姉さん」「義姉妹」になることが流行しているという。義姉は義妹が気に入らない同級生をきつくしかり、義姉妹になることを誓ってから50日目・100日目にプレゼントをもらう。小学生までもが「気に入った。私の義理の妹になりな」という世の中だから、大人たちの「気に入った」風潮は言うまでもないだろう。

 出身地による地域感情で韓国が二つに分かれていたというのも今は昔だ。現在の韓国社会は「貧しい者はさらに貧しく、豊かな者はさらに豊かになっていく」経済の二極化だけにとどまらず、極端な政治の二極化まで起こっている。それに加えて世代間の感情的な二極化も急速に進んでいる。どちらか一方が自分の味方で、もう一方は敵に見えるということだ。半数が半数を敵視する世の中が既に始まっている。韓国人にとっての今後の大きな課題は「気に入らないものと生きていく方法」を考えることだろう。


要するに、「感情的な好き嫌い」であらゆる物事を判断する行為が社会で一般化していると言う記事です。
これが重要なのは、韓国人にとっての「和解」もこの前提の上に成り立っているという事です。


つまり、韓国との和解を日本人が行おうとしたとき、韓国人が感情的に受け入れられない内容が少しでもあった場合、殆どの韓国人はそれを決して受け入れないという事です。
そして更に、記事中にもありますが物事を感情的な二元論で解釈する傾向にあるため、少しでも彼らの望む姿と違えば彼らからは「敵に見える」という事です。


相手がどう思うかは関係ありません、自己の感情が何よりも優先され、先ほど挙げた文禄・慶長の役の事例や白衣云々の事例のように、日本人的価値観ではあまりにも受け入れ難い行為や荒唐無稽な物語を全肯定できなければ、「韓国が差し伸べた和解の手を日本人が振り払った」となってしまうという事です。


こういった感情ありきの判断基準は、韓国の場合徹底した上下のみの人間関係という特殊な社会だからこそ成り立っている価値観なのですが、当然日本ではそれとは全く異なる価値観や社会的背景を有するので、到底受け入れる事ができません。
しかも、韓国人は日本人との間にこういった決定的な価値観の隔たりがある事に、多くの場合気付いていません。


そのうえ、日韓友好を訴える韓国との接点が多く社会的発言力もある日本人達は、こうした韓国人の要求をほぼ何でも受け入れてしまう傾向にあるので、より一層韓国人には違いが理解できないのです。


このように「和解」という単語一つとっても日韓で全く異なる認識なのです。
しかも日本側で韓国との間を取り持ち関係改善をして行こうとしている人々がこの有様ですから、和解どころか関係改善の歩み寄りすらまず無理なのが現状なのです。