日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

韓国人の「恨(ハン)」に関する考察


さて、今回は過去にも何度か紹介した事がある韓国人独特の概念である「恨(ハン)」について、最近気がついたことがあるので、その件について書いていくこととなります。


最初に結論を書いてしまうと、韓国人は日本人が韓国に対して恨を感じていると考えています、これは以前から解っていた事なのですが、最近も数多く行われているメディアなどでの嫌韓批判、どうもこの内容の「テンプレ部分」も、突き詰めると恨に起因するものなのではないか?という事に気がついたのです。


この本題の前に少し裏話的な事を。
実は私は韓国の恨については、言及せずに説明できるのならば意図して避ける傾向にあります。
ここを読んでいる方で、韓国の事をよく知っている方ならば「それを説明するのならば恨について書けば良いのでは?」と感じる記事が結構あるはずです。
なぜ避けるのかといえば、実は私自身この恨という概念を完全には理解していないため、「自身の言葉」でしっかりとこの恨という概念を説明し切れないからです。


この事を踏まえたうえで、一部繰り返しになってしまいますが、恨について私が理解している部分と理解できていない部分についてをまず書くこととします。


まず理解している部分を。
恨というのは、いわゆる「恨み」とは根本的に別物であり、強いて類似する概念を挙げるのならばルサンチマンとかコンプレックスが、概念上は一番近いものです。


恨み、悲しみ、怒り、絶望、羨望、嫉妬そういったものが入り混じった概念であり、朝鮮における徹底した上下社会からの開放願望、自身より上位の存在への憧れ、或いは「自身がその(本来いるべき)上位の位置(或いは対外的な評価)にいない事」に対する無念さなどを表す感情であり、人によってはそのことに対する絶望や諦めと表現する場合もあります。


また、「既に諦めている」という前提が存在するため、恨には終りが存在しません。
そのため一度恨を感じたら、大半の事例ではその恨は永久に続くこととなり、韓国人は延々とそのストレスを「我慢」することとなります。


そして更に、恨は必ずしも自身と直接関係のある他者の行為のみに感じるものではありません。
たとえば韓国人は日本人がノーベル賞を取った場合や、ミシュランガイドに日本のレストランが掲載された、日本が独自のロケットを持っている、独自のリニア鉄道を持っているなどなど、そういった直接韓国とは関係の無いことに対しても、かなり強烈な恨を感じるわけです。


これは韓国内でも同じで、韓国人は皆財閥の人間に対して恨を感じており、時に非常に激しい敵意を向けたりもするのですが、それと同時に大半の人が財閥に入りたがり非常に強い羨望の感情も持っています。
なぜなら「本来そこには自分がいるはず」「なぜ自分(達)ではないのか」と考えているからです。


次にわからない点。
恨とは一種の諦観とも取れるのですが、この恨と言う概念には同時に「恨を晴らす」とか「解消する」という概念も存在します。
そしてそれは実際に「晴らす」わけでも「解消する」わけでもなく、一時的に恨というストレスを発散し鬱憤を発露する行為、私はこれを「冷蔵庫の扉を開けて涼む行為」と解釈しています。


冷蔵庫というのは、外部に熱を放出する事で庫内の温度を一定に保っているため、扉を開けて冷気を外へと逃がせば、それだけ室内そのものの温度は上昇していく事となります。
当然、一時的には涼む事ができますが、扉を閉めれば更に暑くなりますし、開け続ければ冷蔵庫の中身が悪くなってしまう、電気代が余分にかかるというリスクがありますから、開けっ放しにはできません。


要するに、根本的な解決ではなくその場しのぎとしての「解消」という行為なわけです。
実は私はこの行為がイマイチよく解りません。
諦め、要するに問題を解決するための行為そのものを放棄しているにも関わらず、なぜ場当たり的な「解消」行為を行うのか、なぜ「忘れる」というプロセスを踏まず、中長期的にはより恨を増幅してしまう一過性の解消行為へと走るのか、この辺りの思考プロセスがよく解らないのです。


コンプレックスをバネに自身が上昇する事を目指すわけでも、逆に「自分には無理だ」と諦めてすっぱりと忘れる事もせず、延々と現状維持をしたまま、実現しない欲求を恨という名のストレスとして溜め続けていくわけですから、非常に不可解です。
概念として現実に存在している以上、何かしらの合理的解釈でプロセスを説明出来るはずなのですが、私にはそれができていないわけです。


さて、前置きがだいぶ長くなってしまいましたがここまでが私の恨に対する理解と疑問です、日本人には全く馴染みのない、日本に住んでいたらまるで実感の持てない概念である事が解るでしょう。
韓国と北朝鮮にしか存在しない、完全に独自の概念というわけです。
そしてここからがやっと今回の本題となります。


今まで書いてきたように、恨とは非常に独特の概念であり、韓国人と北朝鮮人以外ではまず一般化し得ない概念なのですが、韓国人は日本人が自分達に恨を感じていると考えています。
それがよく解る記事がこちら


日本は嫌韓論もこえた
毎日経済(韓国語) 2015.04.13
http://news.mk.co.kr/newsRead.php?no=350613&year=2015
(前略)
イ・オグァン日韓産業技術協力財団研究委員は、日本で嫌韓の雰囲気が深刻になった背景を、いくつか説明する。まず、東日本大震災・景気後退・政治不安に苦しめられた日本国民は、強い日本を望む。だから安倍首相の富国強兵政策が支持を受ける。

第二に、蠢動する右翼勢力は、嫌韓を手段にして利益を食べている。右翼は安倍政権に批判的な野党を攻撃し、日本の誇りを回復しようとする目的で、韓国を罵倒する。オンライン空間でのネチズンは右傾化を扇動して安倍政権は、これを政治的に利用する。一部のネチズンは、韓国の悪いニュースだけを伝え、嫌韓心理を助長する。

第三に、日本人は自国を憎んで悪口を言う韓国人を嫌っている。小倉紀蔵京都大教授は、韓国の「言いつけ外交」を非難する代表的な嫌韓要人だ。彼は、「韓国が被害者であることを強調しながら、利益追求に必死だ」と主張している。最後に、韓国が中国とより親しくなることに対する背信も作用する。韓国が中国との自由貿易協定(FTA)を結んで中国主導のアジアのインフラ投資銀行(AIIB)に参加することについて、日本は孤立する可能性を懸念している。

今年は日韓国交正常化50周年である。新しい関係の構築は難題だ。日韓関係が悪化すると、東アジア情勢が不安になって、両国の経済に有害である。

まず、韓国と日本は、国民の考え方が異なることを認める必要がある。また、日本は韓国の歴史的被害の事実を認めて領土挑発を中断しなければならない。カギは、両国間の首脳外交を修復、解決策を見出すことにある。そうしてこそ、文化・経済交流もよみがえる可能性がある。




要するに、日本が没落し韓国が上昇しているので、「本来あるべきはずだったところに自分たちがいない」と、上昇する韓国に日本人が恨を感じていると、嫌韓はそういった恨に根ざしたコンプレックスと危機感から来ているものだとしている記事なのですが、こういった記事は2005年にマンガ嫌韓流が発売された頃から、韓国では頻繁に登場して来ています。


またこちらの記事では、それに加えて古代史でも日本は韓国に恨を感じているとしています。


[新しい風]日本人たちの反韓感情はなぜ極端に流れるのか?
全民日報(韓国語) 2015.02.25
http://www.jeonmin.co.kr/news/articleView.html?idxno=127350
カン・ギルソン全北(チョンブク)大学BIN融合工学科教授

最近、日本の我が国に対する感情表出が極端な嫌韓に走る非正常な姿を見せている。特に隣り合う国々の歴史までも無視して認めない姿勢に一貫するその理由は何だろうか?

韓日関係は古代史から見なければならない。日本の源流は西暦660年に遡る。羅唐聨合軍の侵略で滅びた百済王族と豪族らは難民になって金剛(クムガン)を後に復興を夢見て日本に逃げ身を守る。しかし、復興軍さえも663年に白村江の戦闘で完全崩壊した。

この時の様子を日本書紀は次の様に描写している。「百済という名前も今日で終わりだ。ご先祖様の墓地を再び見ることができるだろうか?」そうだ。倭側から見れば私たちの韓半島はご先祖様の国だ。日本人たちの胸中には今もご先祖様の国で、ここには一種のコンプレックスが座を占めている。
(中略)
私たちの韓半島を日本の一部と考える最も典型的な事件が公州・扶余一帯に日本天皇墓を移そうとまでしたことは単なる征韓ではなく自分たちの過去の土地を取り戻そうとする覆土の次元だった。明治維新後から今日まで約150年をアジアの盟主と自任をしたが、最近、韓国の政治・経済の成功と中国の大国化が成功して日本の代表企業ソニーをはじめとする多くの日本企業がサムスンをはじめとする様々な中国・韓国企業に制圧されるとすぐに明治維新以前の古代・中世史の悪夢がよみがえった。

その上、最近、日本は自然災害まで増してこれに不満と不安の極限状態に至り、彼らの本性の内部問題を外部に回して寝かそうとする特有の島国根性がよみがえった。独島(ドクト、日本名:竹島)をはじめ諸問題で無理難題を吹っかけ、我が国が上手く行っていることをねたましく思って牽制しているわけだ。すなわち、日本人自身に内在している一種のコンプレックスの露出である。

数日後に96周年3・1記念日が帰ってくる。今、私たちの大韓民国は克日・抗日を越えて我ら自らが壬辰倭乱以前の大国に帰らなければならない。最小限、日本に関する限り、師匠の国、ご先祖の国、父母の国、そして日本の根の国に帰り、私たちの度量・謹厳さを見せるべきだろう。




予備知識無くこれらの記事を日本人が読んだ場合、あまりにも「ズレ」ていて「一体何を言っているのだ」となるのですが、韓国人から見ると非常に合理的な記事なのです。
なぜなら恨とは韓国人にとって非常に身近で日常的なものであり、なおかつ韓国人は「本来ならば日本人が韓国人を嫌う理由など無い」と考えていますから、「嫌韓は日本人が我々に恨を感じているのだ」と解釈すれば、全てが納得できるというわけです。


もちろん、先ほども書いたように日本の社会にはそもそも恨という概念は存在しませんし、何より以前から書いているように、日本人の嫌韓は本質的には韓国人の「他者の劣等さを自己の優越性の担保とする」蔑視ありきの自民族中心主義を、韓流を通じて目の当たりにした結果であり、日本の一般的な価値観では他者の劣等さ=自己の優越性とする行為は「嫌なやつ」と定義されて嫌悪される、だからこそ嫌われたというだけです。


しかし、韓国では蔑視ありきの自民族中心主義は子供の頃から日常的に教えられた一般的な価値観であり、非常に日常的な価値観ですから、日本人がそれを嫌悪するという発想に至りません。
ですから、同じく韓国で日常的な概念としての「恨」を使って日本の嫌韓を説明する事で、韓国人なりに問題の合理化と解釈を行っているわけです。


そしてここからが重要です。
これも以前から書いていますが、日本のメディアなどを通じて日本人の嫌韓が批判されるとき、「テンプレ」のように使われるのが、「自己の不幸を韓国に転嫁している」とか「韓国の発展に危機意識を持ち韓国人を蔑視することで安心感を得ようとしている」といったような言葉です。


たとえば以下のように


村上春樹氏「相手国がもういいというまで日本は謝るしかない」
2015年04月18日08時01分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
http://japanese.joins.com/article/197/199197.html
日本の世界的な作家、村上春樹氏(66)が「日本は相手国が『もういい』というまで謝るしかない」と強調した。

村上氏は17日に報道された共同通信のインタビューで、「歴史認識はとても重要だから、しっかりと謝罪することが大切だ」とし「相手国が『すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ謝ってくれたから、分かりました、もういいでしょう』というまで謝るしかない」と述べた。続いて「謝ることは恥ずかしいことではない」とし「細かい事実はともかく、他国に侵略したという大筋は事実だから」と付け加えた。

村上氏が異例にもインタビューに応じてこのように強調したのは8月の戦後70年談話(安倍談話)で「侵略」 「植民地支配」「お詫び」という言葉を避けようとする安倍首相に覚醒を促したと解釈される。

また村上氏は「日本が経済大国で、韓国も中国も途上国という時には、その関係の中でいろんな問題が抑え込まれていたが、韓国、中国の国力があがってその構造が崩れ、封印されていた問題が噴出している」と診断した。



こういった記事は過去にも何度も出てきており、以前書いたように古くは2004年に共同通信発ですでにこの「テンプレ化」は発生していたのですが、実は先週ふと気付きました。
「これは要するに恨なのでは?」と。


要するに、恨とは「本来自分が得るべき地位に他者がいる」という事への不満という要素もありますから、発展する韓国に危機意識や嫉妬心を感じてというこういった内容は、恨の概念と考えると非常にしっくり来るわけです。


なぜこういった解釈が出てくるのか、そこが重要となるわけですが、可能性としては大きく分けて2通りありえます。


1:「テンプレ」を行う人間が韓国人と同じく恨の概念を共有している
2:韓国人から言われた事を、よく考えもせずにオウム返ししている


1に関しては、この恨と思わしき「テンプレ」の嫌韓批判は今まで山のように出てきていますが、そもそも先ほども書いたように日本では恨の概念は全く馴染みの無い物であり、それほど多くの人が恨の概念を保有しているとは到底考えられません。
勿論、韓国人と同じく恨の概念を持っている日本人もいるにはいるのでしょうが、明らかにそれは少数派なはずです。


とすると、可能性としては2が最もありえるでしょう。


そもそも、先ほど挙げた記事のように、この「テンプレ」による嫌韓批判を行う人々は、「謝罪すれば解決する」という論法を使う場合が非常に多いわけですが、恨という概念には根本的に終わりというものは存在しません、延々と溜め続けるのが恨です。
それは以前紹介したこちらの記事からもわかります。


日本は「百回でもわびるべき」 歴史問題で韓国高官
ニコニコニュース/共同通信 2015/4/3
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1527622
【ソウル共同】韓国外務省高官は3日、日本との歴史問題に関して「加害者というものは(被害者に)100回でもわびるべきではないのか。何回(謝罪を)しようと関係ない」と述べた。聯合ニュースが報じた。

 日本で、韓国に何度謝罪しても蒸し返されるとの不快感が強まっているとの指摘が出ていることを問われ答えた。日本の過去の政権が謝罪を表明したとしても、同様の認識を現政権が示す必要があるとの考えを示したとみられる。

 韓国では、朴槿恵大統領が就任直後の2013年3月の演説で、日本の植民地支配による加害者と被害者の立場は「千年の歴史が流れても変わらない」と述べたことがある。



つまり、こういったお決まりの嫌韓批判を行う人々は、恨の概念を根本的に理解していないと見て間違いないでしょう。


そして、ここで私は少し日本のメディアによる嫌韓批判について軌道修正をしなければいけないのではないかと考えました。
今までは、私はこの手のテンプレは日本から始まり、韓国人にそれを「耳打ち」することによって韓国で既成事実化していったものだと考えていたのですが、実は逆だったのではないか?と。


要するに、過去何処かの時点で(2004年以前)韓国人が日本の嫌韓現象を知り、それを「日本人が韓国人を嫌う理由がない」と考えた韓国人が、「きっと日本人が韓国人に恨を感じているのだ」と解釈し、それを日本のメディアなどに伝えた結果。それが無批判に、誰もまともに検証することも無く、「便利なレッテル貼り」として広まったのが今の嫌韓批判なのではないかというわけです。


勿論、これは状況証拠しかなく推定の域を出ないので「考察」でしかないのですが。