日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

元寇の色々な誤解について書いてみる




(画像は有名な「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)の一場面)


さて、今回はあまり韓国関係ありません。
元寇については日本でも韓国も含め世界中で「神風のお陰で負けなかった」という風説がまかり通っている事もあり、その辺りについ書く事にしました。


元寇について、日本の教科書のいくつかでも「日本は名乗りを上げて一対一で戦う原始的な戦いをしていたため、弓やで集団戦を行う元軍に歯が立たず敗走し続けたが、夜になり元軍が一端船に戻ると台風がやってきて元軍を壊滅させた」という事になっているのですが、実際はどうでしょうか。


日本、中国、朝鮮の当時の記録を調べてみると実はこの話とは大きく違った戦況が見えてきます。
まず、神風が~という話の元ネタは「八幡愚童訓」と呼ばれる記録からです。
そしてはっきり書けば、この「八幡愚童訓」は「八幡神の信仰のお陰で強大な元軍を打ち倒せました、信仰は大切です」という、一種の経典です。


この経典の最後に台風=神風が吹いて元軍を一掃したというエピソードがあるのですが、それまでに八幡神の化身が現れ元軍を追い立てたとか、海上に逃げた元軍に八幡神の顕現の軍船二艇が現れ神通力で神風を起し元軍を追い払ったというもので、最後に八幡神の信仰を忘れなかったからだとしめられています。


では実際の元寇はどのような戦況だったのでしょうか。
日本、元、高麗の記録を見ると、第一次元寇である文永の役(1274年 10月5日~11月27日)では、10月5日に朝鮮半島を出航した元軍はそのまま対馬壱岐と占領し、博多湾から九州に上陸し陣を敷きますが、九州を領地とする侍達の反撃にあい赤坂の戦い、鳥飼潟の戦い、百道原・姪浜の戦いと次々と敗走、最終的に左副元帥・劉復亨が矢傷を負い海上へ撤退、それを契機に軍議で撤退が決定し、撤退中に台風に巻き込まれます。
つまり、直接的な敗因と台風は関係なかったわけです。


次に第二次元寇である弘安の役(1281年 5月3日~8月7日)では、同じく元軍は対馬壱岐を占領し同じく博多湾から上陸をしようと試みましたが、元の襲来に備えて建造されていた元寇防塁や待ち受けていた侍達に阻まれ上陸に失敗、志賀島に陣を敷きますが志賀島の戦いでも敗走、壱岐まで引きますがここでも敗走、増援を待って再侵攻するため平戸島まで引きます。


そして、再侵攻のため平戸島から鷹島へ移動したところで7月27日に日本軍と再度衝突(鷹島沖海戦)、そのさなかの7月30日夜に台風が襲来し元軍は大被害を受けます。
しかし、ここで壊滅したわけでは無く、その後も約10万人近くの兵力が鷹島に存在しており、御厨海上合戦、鷹島掃蕩戦と続き、ここで元軍は壊滅状態に陥り2~3万の捕虜を出しつつ撤退します。
また、実はこの鷹島沖海戦の最中、六波羅探題より派遣された6万の増援が九州へ向かっていた事から、仮に台風が来なかったとしても結果は同じだったでしょう。


元寇について現在解っている史実はこんな感じなのですが、私も実は小学生の頃「神風のお陰で~」と習ったのを覚えており、調べてみると現在でも幾つかの歴史教科書で「八幡愚童訓」のエピソードを元にした「物語」が史実のように書かれているようです。



そして、実は韓国でもこの「八幡愚童訓」を元にした内容が史実としてまかり通っており、更に「原始的な戦いしか出来なかった日本軍は神風が無ければ勝てなかった」「高麗が日本侵攻に消極的なので助かった」と教えられています。
実は、第一次元寇の主力は高麗軍であり、そのことからこういった話になっているようですが、実際には高麗の出身の官僚と高麗の王が元に「日本を攻めましょう」と進言したのが元寇の切っ掛けです。
また、世間で言われているように高麗の船は脆く台風に弱かったという説も、最近の研究で否定されています。


高麗の忠烈王が元の世祖に東征を勧めた証拠

高麗史、元宗十三年、三月条の記
惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。
使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。
儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。

惟(おも)んみるに彼の日本、未だ聖化を蒙(こうむ)らず。
故に詔(みことのり)を発して軍容を継糴(けいてき)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。
もし此事(このこと)を以て臣に委(ゆだ)ねなば、心力を尽し勉め、 王師 を小助せん。



元寇船の底板、二重構造 粗製乱造でなかった? 琉球大調査
読売新聞(2012年10月10日16時53分)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm (リンク切れ)
http://web.archive.org/web/20121012225032/http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20121010-OYT1T00774.htm?
13世紀の元寇(げんこう)の舞台となった長崎県松浦市海底遺跡鷹島神崎(こうざき)遺跡」(国史跡)で、 昨年見つかった元軍の沈没船の再調査をしていた琉球大と同市教委は10日、沈没船の底板が二重構造に なっていたと発表した。

 韓国・新安沖や中国・泉州沖で引き揚げられた同時代の中国船には見られない特殊な構造になっているという。
一方、陶器やレンガが散乱した場所の土砂を取り除いたところ、二重になった底板が見つかった。

 これまで、元軍壊滅の原因については、大量の船を急造したため簡易な構造になり、衝撃に弱かったとの 見方もあったが、調査を主導した琉球大の池田栄史(よしふみ)教授(考古学)は「これまでに見たことがない構造。
丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と見解を示した。

2014年5月25日追記

コメント欄でもご指摘のあるように、「高麗の王が進言したから」ではなく、高麗の忠烈王が王子の時代に元へ人質に差し出されていた時に、積極的に日本侵攻を支持したという流れのようです。
また、元のクビライが日本侵攻を決定した理由に関しても、高麗出身の官吏である趙彝が進言したとする説(高麗史より)と、クビライが日本には莫大な富があると聞かされ侵攻を決意した(マルコポーロの東方見聞録より)とする説があるようです。


そしてもう一つ、「日本侵攻に高麗が積極的ではなかった」とする話は、先王の元宗が日本侵攻に際しての高麗の戦費負担を恐れ、元に対して何度か嘘の報告をしていたという事実は実際にあるようです。(ただし元宗自身は一貫して親元政権)
その後嘘が続かなくなると積極的に協力するようになり、それがそのまま忠烈王の王位継承(1274年)まで続いたという流れとなっております。

追記終わり


では、最初にもある元寇襲来絵詞のあの絵「名乗りを上げているところを矢で撃たれた」と良く説明されるこれはなんなのでしょうか。
実はこの絵詞は非常に長大な絵巻物であり、あの絵はその中から一部分を抽出した物に過ぎません。
あの部分の全体像はこんな感じです。






見ての通り、実は切れている部分で元の兵士達が逃げ惑っています。
そして、このブログでは画像のサイズ制限に引っかかって貼り付けれなかったのですが、更にこの後ろにも逃げ惑う元軍の兵士の姿が描かれています。


詳しくはこちらを参照

九州大学付属図書館データベース
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/


そして更に、実はここで矢を撃たれている侍の名前もわかっています。
それは肥後の御家人竹崎季長さんです。
そのうえ、この長大な絵詞を書かせたのも季長さん本人であり、言うなればこの絵詞は「季長さん物語」とも言えるものです。
上のリンクを見てもらえば解りますが、元寇に際して季長さんを中心に当時起きた様々な出来事が描かれているわけです。


もちろん季長さんは名乗りを上げたところを矢で射抜かれたわけではありません。
では何をしているところなのでしょうか、それを知ってもらうために、竹崎季長さんについて書いて終わりとします。


この竹崎季長さん、肥後の御家人ではあったのですが、地元の所領争いに敗れ元寇の少し前に領地や財産の殆どを失い、自宅と一頭の馬しかもっていないという状態にまで落ちぶれていました。
そんな時元寇に元が日本へと攻め込んできます。


そこで季長さんはこれをチャンスと考え、元と戦い戦功を挙げそれで幕府からの恩賞を得て失地回復を果たそうと考えたわけです。
そして、唯一の財産である一頭の馬と、僅か5人にまで減った部下を引き連れ(当時の季長さんに部下を養うだけの財力があったとは思えないので、恐らく忠義と義理による参戦でしょう)、博多へと向かいます。


しかし、少し出遅れてしまったようで、最も目立つ戦功である最初に敵兵を討ち取り首級をあげる戦功は先に別の御家人にとられてしまっていました。
そこで、彼は非常に危険な賭けに出ます。
当時の戦い方は、言われているように名乗りを上げての一騎打ちというわけではなく、最初に矢の撃ち合いをし、ころあいを見て騎乗突撃をするというものが一般的でした。
(そのため、当時の鎧である大鎧は矢に対する防備に最も重点を置いたつくりにもなっていました)


そして、この最初の騎乗突撃の成否が勝敗を分ける場合が多かったのですが、突撃するさいに最初に少人数が突っ込み、後ろから後続の大部隊が突撃するようにすると、矢が先頭集団に集まるので後続が比較的安全になり、騎乗突撃が成功する可能性が挙がります。
これを「先駆け」というのですが、勿論矢の集中攻撃を受ける先陣隊は非常に危険です。


当然危険なだけに戦功の褒章も大きいです。
季長さんは、鳥飼潟の戦いでこの「先駆け」を行ったわけです。
結果、突撃のさいに矢を受け落馬、そこで戦線から引く事となったわけですが、お陰で鳥飼潟の戦いは大勝利に終りました。
季長さんは先駆けのトロフィーを獲得しました突っ込んで怪我をしただけとはいえ、先駆けを見事成功させ、戦いに大きく貢献したわけです。


元寇襲来絵詞に描かれたあの有名な絵には、こんな背景があったわけです。
一般的に言われているものとはだいぶ違いますね。


しかし、話はここでは終りません。
その後、幕府はなぜかこの季長さんの先駆けを戦功と認めず、季長さんは失地回復に失敗、情報が正確に幕府に伝わらなかったからとか、ただ負傷しただけと判断されたとか諸説ありますが、真相はわかりません。
はっきりしているのは、この時点で季長さんは先駆けのトロフィー獲得先駆けの褒章を得る事ができなかったというわけです。


その後…
1281年7月の弘安の役鷹島沖海戦、そこには敵船に乗り込み元気に暴れまわる季長さんの姿が!




元寇襲来絵詞より、大暴れする季長さんの図)


実は季長さん、第一次元寇の後褒章がもらえない事に激おこ激怒し、馬や家財道具を全て売り払い鎌倉までの旅費にあて、幕府へ殴りk(ry…直訴をしに行っていたのです。
そりゃそうです、当時の防人の詩にもあるように、参戦した侍達は皆手弁当、つまり旅費も戦費も何もかも実費です。
経済的に苦しい状態にあった季長さんは、それでもなんとか費用を集め参戦し命懸けで先駆けを成功させたにも関わらず、この仕打ちはあんまりだとおもったのでしょう。
旅費や戦費だけじゃなく、矢傷と落馬による怪我の治療費だって無料じゃないですし。


そして、なんとか恩賞奉行の安達泰盛らと面会、安達らの口添えもあり、なんとか先駆けの恩賞を手に入れ見事失地回復を果たしていたのでした。
(ついでに安達さんからは帰りの馬ももらえました)


そんなこんなでなんとか復活を果たした季長さん、第二次元寇の海戦でも多大な戦功を挙げ、その地位を盤石の物とし成功を収めました。
そして1293年、有名な季長さん物語蒙古襲来絵絵詞を書かせ、甲佐大明神へと奉納します。


この奉納にも諸説あるのですが、実はこの絵詞が描かれる少し前、先駆けの恩賞の口ぞえをしてくれた恩人の安達さん達が、幕府内の内紛である霜月騒動平頼綱らによって討たれ滅ぼされており、それに対して何も出来なかった事から安達さんらへのお礼と鎮魂の意味もあったのではないかと言われています。




以上となります。
はい、今回ふざけすぎました、すみません。
ぶっちゃけただ竹崎季長さんについて書きたかっただけです。
季長さんって、なんか人間臭さが滲み出ていて好きなんです、はい。