(画像は中国の兵法書『武備志』に描かれた朝鮮勢法)
今回は前編に引き続き検証・解説編となります。
ここでは偽剣道団体である大韓剣道会と海東剣道の主張とその嘘と間違いにいつて詳しく解説していきます。
まずは海東剣道から。
この団体は、1970年代に大韓剣道会で起きた内紛の結果枝分かれした組織なのだが、韓国内での競技人口こそ大韓剣道会に比べて少ないものの、近年韓国の政府機関である国家ブランド委員会とスポンサーであるヒュンダイの後押しにより、特に欧米圏で活発な活動を行っている組織だ。
彼らの主張は以下の通り。
ここで書かれている「キム・ヨウシン」とは、金庾信(キン・ユシン 595年~673年)と呼ばれる人物の事なのだが、この人物は朝鮮の三国時代の新羅の将軍であり、統一新羅建国に貢献した実在の人物だ。■10年の山ごもりの末に完成 競技人口は300万
http://news.nicovideo.jp/watch/nw88605
ニコニコニュース(オリジナル) 2011年7月18日(月)20時32分配信
会場で配られた資料によれば、ハイドン・グムドはかつて朝鮮半島北部にあった高句麗の兵士のあいだで使われた武術が基になっているという。それを西暦595年から673年頃、キム・ヨウシン将軍が 体系的にまとめたとされる。その後、永らく途絶えていたが1960年代、キム・ジョンホ氏が10年間の山ごもりの末にマーシャル・アーツとして完成させ、 創始者となった。現在、全世界で300万人がハイドン・グムドを楽しんでいるという。
同様の内容は海東剣道のフランス語ページにも存在する。
http://haidong-gumdo.fr/index.php?option=com_content&view=article&id=16:historique&catid=14:le-haidong-gumdo&Itemid=5
しかし、金庾信の事が書かれている三国史記には、彼が武術を体系化したとか、なんらかの剣術を習得していたとかの事は一切言及されていない。
しかも唯一剣術に関する言及がある部分は、話の文脈から呪術か祭儀用の剣舞を舞ったというものだけでしかなく、ここを都合よく拡大解釈したものと思われる。
また、ここでは言及されていないが、士武郎と呼ばれる集団が現在の東アジアの剣術の元となったともしているが、そもそもどの国のどの時代の文献にも士武朗なる単語は存在せず、海東剣道が1990年代に創作した単語と判明している。
またこんな記事もある
ブレーキニュース(韓国語) <キム・ホンイルの剣道話>躍動的な海東剣道を捜してまず根本的におかしいのは、そもそも今見られるような竹刀が出来たのは19世紀に入ってからであり、それまでは新陰流などで袋竹刀と呼ばれるものが使われてはいたが、基本的に修練で使われていたのは木刀である。
http://breaknews.com/sub_read.html?uid=115069§ion=sc11
【韓国】 高句麗の士武郎(サムラン)が伝えた海東剣道を求めて~キム・ホンイルの剣道の話「島国日本、竹刀術が総てと誤解」[11/26]
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1259398715/
私たちの先祖は六片で作られた竹刀で剣術競技をしたが、矮小な日本人たちは自分たちの体格に合わせて四片の竹刀を作って使った。これが今日、逆に普及して剣道の真髄のように見え、今日に日本武術が伝統武術であるかのように化けたこともある。
島国日本が聞けば気分が悪いだろうが、日本の南部地域で剣術より竹刀術を一層発展させると剣術を正しく知らない当時の倭人らが今日の竹刀術をあたかも剣の総てであるかのように勘違いさせた。短くて直刀の形式を簡便に多く使い、技術を習った日本人は長剣を使い始めた。
朝鮮にきて数多くの武術人と才能者など朝鮮の宝物を持っていったのがすでに知っているように壬辰倭乱だ。さらに深く見るならば、茶器戦争ということができる。こういう文化破壊にあった私たちの先祖は真にすごい生命力を持っていたようで偉大だ。
<キム・ホンイル大韓海東剣道釜山協会支部長-釜山、東莱海東剣道長>
また、以前も書いたが彼らは太刀の存在を知らない、もし太刀の存在を知っていればそもそもこんな事は書けない。
なぜならば太刀の歴史は長大化の歴史だからだ。
日本刀の歴史はまず平安時代に太刀が登場し、そこから鎌倉時代になるとどんどんと長大化していき、野太刀や大太刀と呼ばれる、非常に長大な刃長が90cmを超える太刀が登場するようになる。
現在時代劇などで一般的に見られる打刀と呼ばれる刀は室町時代になってから成立した物なうえに、長さが規格化されたのは江戸時代に入ってからだ。
(野太刀や大太刀が廃れた戦国時代においても、長宗我部信親のように全長が170cmを超える長大な大太刀の使い手が存在していた)
つまり、この海東剣道の支部長のインタビューは何もかもがデタラメで、その場の思いつきで適当な事を喋っているだけなのだが、厄介な事に彼らが活動する欧米では事情を知らない人が多いので、これを真に受けてしまう人達が少なからず存在してしまっている。
次に大韓剣道会について。
大韓剣道会は、過去にも書いたように韓国最大の剣道団体であり、韓国のオリンピック委員会なども傘下にある大韓体育会に所属する、韓国唯一の政府公認の組織であり、日本の剣道団体である全剣連とも活発に交流をしている組織だ。
この組織に関しては、自分も長年観察してきたのだが過去何度か主張が大きく変わっている。そこで代表的なものを時系列準に3つ紹介する事にする。
2003年頃これから解説していくのだが、武備志と武芸図譜通志の件をしっかり解説していくとそれこそ膨大な文章量になってしまっていつまで経っても終らなくなってしまう。そもそもこの2つと大韓剣道会の嘘に関してはネット上にいくつも間違いを指摘しているページがあるので、詳しく知りたい場合にはそちらを参照してもらうとして、ここでは大雑把に要点のみの解説とし、そういった解説とは別の視点からの検証と反論をすることとします、その点だけご了承ください。
http://jkcnews.seesaa.net/article/25623030.html
・剣は昔からどこでも使われてきたのだから剣道の「日本のものか、韓国のものか」は取るに足らない問題
・しかし、あえて言うなら刀も剣法も百済から日本に伝わったのだから韓国起源
・七支刀は百済王が日本の君主に権威の象徴として下賜したことからも刀の起源は明らか
・桓武天皇の生母は百済人、当時強大だった百済から武寧王の子孫の女性を送る際に護衛に武士も一緒についてきた、それが日本の武士の起源
・古代の天皇は百済人なのだから剣法が百済から伝わったというのは当然
・日本の功績は剣道を競技化したこと
・剣道を競技化しただけの日本が、「コムド」を「ケンドー」と呼ばせるのは間違い
・現在大韓剣道会は「コムドのオリンピック種目化」のために動いている
2009年頃
【剣道】 韓国で剣道王に「朝鮮刀」与えるわけは?~剣道に潜む韓国の伝統を知って欲しい★3[03/07]
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1236527079/
http://www.logsoku.com/r/news/1236955530/
・剣道は日本で始まったスポーツだが、朝鮮の伝統的な武技の伝統も加えられている
・刀は古来からあるのだから剣道の伝統は韓国と中国、日本で特に違わないし、刀の形状も大して差は無い
・日本は近代になって剣道の防具とルールをつくってスポーツ化しただけ、防具も日本が体系化しただけで中国や朝鮮のものと大した差は無い
・「刀の伝統」は元々朝鮮にもあるのだから、大韓剣道会では大会の優勝者に伝統的な韓国刀を与えている
・剣道で段位を取ろうとすれば、新羅の花郎より伝わる伝統の本国剣法と朝鮮勢法の訓練が必要で、このときに韓国刀の真剣が必要
・明の茅元儀が編纂した武備志という兵法書にも朝鮮勢法は紹介されている、武芸図譜通志にも新羅花郎の本国剣法の記録がある
・日本は剣道の宗主国だと主張しているが、朝鮮時代に朝鮮の刀工が沢山日本に連れて行かれたのだからその影響が入っている
・刀を利用した武技が変形された呼称である剣道を日本スポーツと一方的に言うことは問題
現在
http://www.kumdo.org/deahan_kumdo/d-kumdo1-2.php
http://www.kumdo.org/deahan_kumdo/d-kumdo1-4.php
・剣道の原型はエジプトの棒遊びから始まったものだ
・剣道という用語は中国の<漢書>芸文志兵技攷に出てくる'剣道三十八篇'という記録が最初である
・中国の撃剣が朝鮮に伝わり体系化され、金庾信(595年~673年)ら新羅花郎達が東洋最高の剣術として完成させた
・明の茅元儀が編纂した武備志という兵法書にも朝鮮勢法は紹介されている、武芸図譜通志にも新羅花郎の本国剣法の記録がある
・日本の剣術と刀はこの技術が伝わった物である事は疑う余地がない
・日本が剣道をスポーツとして開発したことは彼らの自慢であり、その根元が私たちにあるということは私たちの誇りだ
日本統治時代に日本式の剣術が入ってきて伝統の継承が難しくなったが、それでも我々は祖先の技術を引き継いできた
まず七支刀に関してなのだが、そもそもこれは中国の東晋で魔よけとして使われていた祭祀用の鋳造剣である事(日本刀は鍛造)、日本書紀に4世紀頃、倭に対し百済が朝貢した際に献上されたものと書かれていることなどから明らかに事実と異なる。
ちなみに、百済や新羅が当時の日本に服属していた事実は、日本書紀以外にも「広開土王碑」「隋書 巻八十一 東夷伝 倭国 」「宋書 巻九十七 夷蛮伝 倭国 」「三国史記 新羅本紀 」「三国史記 百済本記」「梁職貢図 新羅題記」などに記録されているが、韓国では一般人どころか学者ですら「感情的に受け入れられない」と言って一切認めておらず、逆に「日本は百済に服属していた」と主張している。
次に桓武天皇の生母の件と天皇百済人説なのだが、これは所謂「天皇ゆかり発言」を都合よく曲解し政治的に利用した物に過ぎない。
そもそも桓武天皇の生母となった高野新笠という人物は西暦720年頃の生まれの人物であり、百済は346年から660年まで朝鮮半島南部に存在した国家なのだから、根本的に時系列が合っていない。
なにより高野新笠は、百済が大和朝廷への服属の証として人質に送った武寧王の10代後の子孫であるとされる人物で、それを踏まえたうえで「続日本記に桓武天皇の生母とあるから朝鮮にゆかりを感じる」と発言しただけに過ぎないのだが、それが現在の韓国では「天皇は百済系」という話にまで拡大解釈されているのだ。
次に花郎に関して。
花郎の文献上の最古の記録ではこうなっている。
三国史記 新羅本紀 真興王三十七年の記述要するに高級男娼か女装貴族の互助会だったのではないかと言われている集団なのだが、明治から大正時代にかけて日本の一部の学者が花郎武人説を提唱したことがあり、それを韓国の初代大統領である李承晩が「正史」としてしまったため、現在の韓国でもそれが殆ど無批判状態で支持される状態となっている。
「最初に二人の美女を選んだが、互いに美しさに嫉妬して、殺しあったので、生き残った女は処刑した。
次に、美貌の男を選んで、化粧をさせて、豪華で美しい着物を着せた。この男を花郎と呼んだ。
大勢の男が(花郎になろうとして)集まってきて、議論したり、詩を作った。国中の名所を観光旅行した。
こうした行動の中から、優れた者を選び朝廷に登用した。こうして登用した花郎の中には、良将と勇卒がいた。」
ちなみに、花郎そのものは武術集団や軍事集団ではなかったが、文献上花郎から軍人になった人物は存在する、ただし一時代に10人から20人ほどいたとされる花郎の中で全ての時代を通して5人だけだが。
「良将と勇卒がいた」というのはこの5人の事を指しているわけだが、花朗武人説ではこれを花朗全体の事と解釈しているのでおかしな事になっている。
ちなみに、大韓剣道会、海東剣道双方に名前の出てくる金庾信も若い頃に花郎に所属していた事が三国史記に書かれており、彼らはそこから想像力を働かせてこんな事を主張しているわけだ。
最後に「日本と中国と朝鮮の剣は全て同じと言う主張と、武備志及び武芸図譜通志について。
これを説明するに当たり、まず日本刀の歴史を簡単に説明しておく。
日本刀の登場前、大和王権やそれ以前の時代には中国式の両刃の直剣が主流だった。
荒神谷遺跡などから発掘された木の葉型の刀剣や正倉院に現在も保存されている唐太刀などが代表的であり、朝廷による東征が完了するまではこの唐様式の刀剣が「朝廷内では」主流だった。
(唐様太刀)
これとは別に、6世紀頃より当時「朝廷の非支配地域」だった関東や本州中部以北で、蕨手刀と呼ばれる刀剣が登場する。
これは片刃の彎刀であり、斬撃の際の反作用を逃がすために刀身と柄の間が彎曲しているという特徴を持つ刀剣なのだが、これが独自の進化を遂げていき、柄にスリットの入った毛抜型蕨手刀となり、日本として統一されるとこの技術が朝廷にも持ち込まれ、9世紀に唐様太刀の要素を取り入れた小烏丸型と呼ばれる過渡期的な形状を経て、毛抜型太刀・衛府太刀へと進化し、10世紀後半から11世紀前半頃に太刀が登場する。
(蕨手刀)
(毛抜型蕨手刀)
(衛府太刀)
(※衛府太刀に関しては、後の時代にも京都の公家達の間で携帯され、儀礼用のものは豪華な装飾が施され画像の形のまま、実戦用はスリットを意匠化した模様のある柄の太刀として受け継がれていった。)
太刀は11世紀初頭頃に、打刀は14世紀頃に登場し、製作のために必要な技術体系の基礎もこの頃に完成している、大韓剣道会や海東剣道が言うように、16世紀の出来事である秀吉の朝鮮出兵で刀工を連れ去ったなどというのは、時系列を無視した嘘でしかない。
そして、これは非常に重要となるので覚えておいてほしいのだが、衛府太刀までの刀剣は「全て」片手持ちであり、両手持ちになるのは太刀が登場してからという事だ。
さて、こでやっと武備志に関しての説明になる。
武備志とは、明代に書かれた中国の兵法書なのだが、これが書かれた経緯は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で明軍も李朝の軍も日本刀に全く歯が立たなかったことから、過去の文献を元に武術をもう一度見直そうという発想から始まっている。
そして、「我々の剣は日本刀より短く弱いので、両手持ちの剣が必要である」として、唐代にあったとされる両手持ちの長剣(両刃直剣)に言及し、既に明では廃れて存在していないが、武備志の著者である茅元儀が「失われた唐代の長剣術が剣訣歌という形で朝鮮に残っており、最近好事家がそれを見つけてきた、これを朝鮮勢法という」と紹介している。
武備志にはこの朝鮮勢法が解説付きの24の絵として紹介されているのだが、それがサムネなどにある画像なのだ。
つまり、大韓剣道会が剣道の起源として新羅から伝わったと主張している朝鮮勢法とは、元々唐に存在した両刃直剣の長剣術の事であり、朝鮮で作られた剣術でもなければ、勿論「太刀になるまで片手持ちだった」日本刀のルーツとも何の関係もないのだ。
次に武芸図譜通志について。
これは18世紀末に朝鮮で武備志を元にして書かれた武術書なのだが、まず「朝鮮当初ノ武芸ハ、射ノ一技二止マリシ」と書かれており、ここでも秀吉の朝鮮出兵を引用して「これではいけないので中国と日本から武術を取り入れ新たに朝鮮の剣術(新剣)をつくろう」という趣旨の元に書かれている。
そして、中国と日本から様々な武術を取り入れ、「本国の剣」としたわけだ。
これが彼らの言う「本国剣」の正体であり、新羅から伝わる伝統剣術ではありえない。
そもそも現在の韓国人は「新しく作った剣」という意味の「新剣」という単語を、強引に新羅の剣としているだけなのだ。
そして、日本から持ち込んだものを倭式刀、中国から持ち込んだものを華式刀と呼び、いくつかの編にわけて図解入りで解説しているのだが、日本から持ち込んだ日本刀を倭式刀として紹介しているにも拘らず、現在の韓国人はこれを「朝鮮にも刀があった証拠であり、これは朝鮮勢法と同じ物だ」と強引にこじつけているというわけだ。
(武芸図譜通志 倭式刀)
当たり前の事だが、両刃の直剣と片刃の彎刀では根本的に反作用の方向が異なるので、同じ技術で扱う事は出来ない。
朝鮮では伝統的に刀剣といえば両刃の直剣であり、片刃の彎刀は17世紀以降に対馬藩経由で日本から輸入した輸出用量産品の打刀と、それを模倣した朝鮮刀(鋳造)が少数あるだけに過ぎない。
そもそも日本刀は太刀から始まり打刀へと変化して行った事が明白にも拘らず、朝鮮には太刀が一切存在していないのだから、当たり前の事だが起源を主張するのには無理があるし、なにより封建社会を経験していない朝鮮が武士の起源を主張するのもおかしな話なのだ。
最後に、ここまで見て「たしかに古代からというのは無理があるが、日本の打刀や剣術を取り入れたなら、一応朝鮮にも武芸図譜通志が書かれた18世紀末以降には刀を使った伝統剣術があるんじゃないの?」と思う人もいるだろう。
が、実は朝鮮では元々武術が軽視されていた背景があり、武芸図譜通志以降にこの手の剣術言及した文献も、それを継承した技術体系を受け継いだ人達も存在しない。
更に、武芸図譜通志では朝鮮通信士として日本へと渡り、そこで日本の剣術を学んできたという人物の指導を元に片刃の彎刀術を作っているのだが、この人物が学んだとする流派が、当時の日本に存在していないのだ。
存在しない流派から剣術を学べるわけもなく、武芸図譜通志以降にそのとき作られた技術を継承した人物も存在しない。あるのは少数の図解のみでそれすらも成立経緯が怪しい。現在大韓剣道会や海東剣道が「復元した」としているものが、本当に「武芸図譜通志」や「武備志」から復元された「伝統剣術」である可能性はまずない。
そもそも本を読んだら剣術を学べたという発想自体が根本からおかしいのだ。