さて、本日は以前から書いている韓国の「主観的・絶対的正しさ」に関連した内容となります。
韓国発の記事などを読んでいると、「真正性」という単語を良く見かけるが、単語は同じでも日本で専門用語として使われる「真正性」という単語とは全く異なった概念であり、強いて意味を書くなら「全ての人々が正しいと感じていること」となる。
そしてなぜ「全ての人が正しいと感じているのか」は、彼らの解釈では「皆が正しいと認識しているから」となり、そこに「何故」はなく、ただ漠然と主観的に皆が正しいと認識しているから正しいとなっているだけなのだが、韓国人の多くはこれに普遍性があると考えている。
韓国社会にはこの考え方があるため、相手の主張や反論に全く意味を見出せない人が多く、何度間違いを指摘しても同じ主張を繰り返したり、(日本人の常識では)矛盾だったりチグハグだったりする主張をする場合が多いが、彼らの中ではそれに「真正性がある」事になっているからこその場合が多い。
※一部を除き、引用記事が日本語の場合には文中にリンク用アドレスとタイトルのみ表記、韓国語のものやリンク切れで参照不能な記事のみ文末にまとめて本文を引用します。
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1:真正性という概念
まずはこちらの記事から
【社説】慰安婦合意の成否、説得と真正性にかかっている
2015年12月31日10時43分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
http://japanese.joins.com/article/244/210244.html
28日にかろうじて妥結した韓日慰安婦の合意が激しい抵抗にぶつかった。一部の市民団体と野党は汎国民反対運動まで行う勢いだ。韓日協定50周年を迎え、困難の中で用意された関係改善の契機が水の泡になる局面だ。
今回の合意は、日本側の法的責任の拒否と元慰安婦女性との事前疎通の不在によって初めから問題を抱えていた。それでも未来志向的な韓日関係の構築という名分で、長年の懸案が円満に解決されることを期待したのが私たちの率直な心情だ。
だが合意後、日本から出る一連の発言と報道を見ると、安倍政権の謝罪に対する真正性を疑わざるをえない。
何よりも安倍晋三首相自身が「もう謝罪はない」と釘をさしたという部分は衝撃的だ。ユダヤ人虐殺を犯したドイツは1970年、当時のヴィリー・ブラント首相がポーランドのワルシャワのゲットー記念碑の前でひざまずいて謝って以来、首相・大統領が過ちの赦しを請い続けてきた。日本の作家、村上春樹が指摘したように「謝罪は被害者がもういいというまですること」だ。
日本大使館前の慰安婦少女像も同じだ。日本は、少女像の事前撤去が補償金10億円の支給条件だと言い張っている。少女像は民間団体が設置したものであり政府が移転を約束できない事案だ。合意内容にも「関連団体との協議などを通して適切に解決されるよう努力する」とだけされている。
これだけではない。「韓国政府が慰安婦の記録物の世界記憶遺産の登録を見送ることにした」という日本メディアの報道や、安倍首相夫人の昭恵氏が慰安婦合意の当日に靖国神社を訪れたのも全て納得し難い。
「国際社会で相互非難・批判を控える」という合意内容の前には「日本政府が表明した措置が確かに実施されるということを前提に」という但し書きがついている。日本政府が約束した通り「慰安婦に対する責任を痛感して心からおわびと反省の心を表明しなければ」、韓国の怒れる市民たちがただちに妥結の無効化を叫ぶことは明らかだ。今回の慰安婦合意の成否は結局、韓国政府の対国民説得と共に日本の真正性いかんにかかっている。
この記事は去年末の慰安婦合意後の記事なのですが、恐らくこれが概念としての「真正性」を知る上で最も解り易いので紹介しました。
記事中で「日本から出る一連の発言と報道を見ると、安倍政権の謝罪に対する真正性を疑わざるをえない。」と書かれているのですが、その真正性を疑う行為とは「謝罪をこれで終わりとする事」「日本大使館前の慰安婦像撤去要求」「慰安婦問題の世界記憶遺産登録見送り」などがあります。
日本人の感覚からすると、この合意は「双方の対立原因となっていた懸案を、この合意で終わりにする」という意味ですから、これら3つの内容は合意の範囲内と考えるわけですが、謝罪を序列決定作業の一環と考える韓国的価値観では合意は終わりではありません。
彼らの考えでは、韓国側の言い分を日本側が全面的に受け入れ、韓国側が望めばその都度謝罪し続ける事こそ「対立が終わりになる」と解釈されているからです。
そしてこの解釈においての真正性とは、「日本側が自分達の加害性を認めて謝罪を続ける事」「日本の道徳的劣等性を常に韓国側が意識できる状態である事」であり、それが世界中全ての人々が信じる正しさであると考えているからです。
なぜ?との問いは無意味です。
これは韓国社会の中では「過去・現在・未来」全てにおいて普遍性を持つ正しさであると、現在の韓国人の多くが主観的に感じているもの、それこそが真正性だからです。
また、これは概念的に疑うような性質のものではなく、感覚的に「そういうもの」であって、相手がこの「真正性」と異なる意見を持てばそれは自動的に「真正性」に反する悪となるため、根本的にそもそも相手の意見など一切求めていないのです。
理屈ではなく「そういうもの」なのです。
このような特定の国家や民族・地域間で「理屈抜きに概念的にそういうもの」としてコンセンサスが出来ている事例は大抵どこにでもあり、例えば意味はまるで異なりますが同様のものは日本にもあります。
日本には「お互い様」という概念があり、これは要するに仏教の概念における「因果」の考え方が発展したもので、自身の行いはいずれ自身に返ってくるとする考え方から、「困ったときはお互い様」等トラブルや対立があったときに、それが泥沼化しないために「お互い様」で手打ちにするといった使われ方をされます。
そしてこの概念では、例えば見知らぬ人を助けたとしても、いずれ自身も見知らぬ誰かに助けられるといった、根拠のあやふやなある種の超常的発想が根元に存在しており、だからこそ外国人にはなかなか難しい概念です。
似たような概念として、一神教などにおける「神様は見ている」などがありますが、日本の「お互い様」の場合神様のような具体的な主体が原則的に無い場合が多く、非常に感覚的なものなため余計にわかり難いようです。
しかし日本人は、理屈ではなく感覚的にこの「お互い様」という概念を理解しており日常生活でも頻繁に使います。
なぜなら「お互い様」のコンセンサスが社会的にできているからです。
韓国社会における真正性も「そういうもの」として認識するとわかりやすいでしょう。
理屈ではなく、彼らの中では「この世の中に絶対普遍の正しさ」が存在している事になっており、それは世界中全ての人々が共通してもつ道徳観のようなもので、それに反する行為(=疑ったり異論を出したりする行為)そのものが異常なのです。
ですからこれは対日本だけではなく、最近も韓国内で朴大統領の対北政策のブレについて「国民の多数が真正性を認める国家指導者でなければならない。」などの表現で使われています。
【時視各角】非常状況、朴大統領の対処法 中央日報 2016年10月14日
韓国社会においては、日本社会における「お互い様」という概念と同じくらい日常的で一般的な表現であり概念なのです。
慰安婦合意が今でもこれだけ拗れるのも、要するに彼らの中では日本の行いが「真正性に反している」からこそ、とんでもなく非常識に見えているのです。
合意内容がどうであろうと、彼らにはそれは全く関係が無いのです。
2:「反論」が意味を成さない
上記のように、韓国社会における「真正性」とは漠然としていると同時に普遍性も持っており、恐らく朝鮮の儒教朱子学や性理学の概念における「地位の高い人間は正しい」との考え方から発展したものでしょう。
この概念においては、これまで書いてきたように根本部分は「皆が正しいと感じているから正しい」という、非常に漠然とした前提が存在しており、しかもそれを実際にアンケートなどをとって調べるのではなく、主観によって感覚的に”そう”なのです。
韓国社会で根拠が重視されないのはこのためで、この「感覚的な真正性」の前では根拠は言い訳にしかならないのです。
そのため、たとえば竹島問題においても、最近韓国で「独島が韓国領である新たな証拠が発見された」とのニュースが出てきましたが、内容を読むと個別の史料が異なっているだけで主張そのものは過去に間違いが「何度も」指摘されているものです。
“竹島は韓国領” 韓国独立記念館が新たな証拠資料を公開 Record china 2016年10月25日
記事では、1912年の中学校教科用地理付図に収録された「最近日本地図」と、1946年に朝日新聞社が刊行した週刊画報誌「アサヒグラフ」に掲載された「新生日本地図」で、竹島が日本の領域外となっているとしています。
しかし、そもそも前者の場合には当時の朝鮮は日本領であり、単に竹島の管轄が一時期島根県ではなかったというだけであり、根本的に日本が竹島を自国領と見なしていなかったという韓国側の主張自体が成り立ちません。
また後者の場合には、当時の日本はGHQの施政下にありSCAPIN677号によって一時的に竹島が日本領から外れGHQが直接管轄する地域だったというだけで、根本的に韓国領であったという前提そのものが成り立っていません。
日本領から外れた=韓国領ではないからです。
そしてこのことは、韓国は過去に何度も似たようなことが書かれた地図を韓国領の証拠として主張し、日本側から上記のような反論をされているのですが、韓国では「竹島は1000年以上前からわが国の領土だった」という内容が「真正性」となっているので、反論を反論としてすら認識していません。
そのため、同様の内容が書かれた別資料を延々と「これが根拠だ」として提示し続けるのです。
今回の竹島の事例の場合、少なくとも私は過去3~4回は同様の主張を見ており、出典が異なる以外の違いが一切ありません。
こうした事例は韓国関連では非常に多く、韓国人と様々な問題で議論をした場合、彼らは「なぜそうなるのか」の大前提をこの真正性に依存している場合が多く、そのため自分の主張はするが相手の主張は頭から否定する、或いははじめから求めていないといった態度を取る場合が多いです。
しかもこちらがその件で反論しようにも、前提が「誰もがそう信じる(or信じるべき)ものだからだ」とする非常に曖昧なものが前提の結論ありきであるため、こちらが何を言っても「こうだったかもしれない」とか「こうだったはずだ」と返してきて延々と水掛け論になってしまうのです。
3:効果的な対処法
今回書いたように、真正性とは日本における「お互い様」の概念のように、理屈よりも感覚的に共有している概念であるため、そこに論理的な反論をしても殆どの場合無意味になります。
ただこうしたロジックそのものは先入観などから日本人でも陥ることがあり、その結果結論ありきのレッテル貼りや詭弁を使った誤魔化し、先入観から来る錯誤などに陥ることがあるのですが、日本人の場合は「何が間違いなのか」を説明すれば「引っ込みが付かなくなった場合」以外では大抵議論が成り立ちます。
韓国人との大きな違いはここにあり、韓国人の場合多くはこうした問題点の指摘をしても指摘された問題点を改善したりはしません、真正性が大前提なのでそこが崩れない限り意見が変わることも無いのです。
ではこの「真正性」の部分を崩すとどうなるかというと、一部は「根拠を前提とした考え方」が身につく場合もあるのですが、多くは以前「実は韓国人は反日より親日のほうが厄介な場合が多い」で書いたように、性質はそのままでベクトルだけ変わるといった状態になる事が多いです。
結果「韓国人との議論は多くの場合時間の無駄」「労力に見合わない」となるわけですが、以前も書いたように韓国人以外の第三者の前で議論する、或いは議論の過程と結果を伝える(この場合過程のほうが重要です)などが効果的であり、韓国人は変わりませんが第三者には効果大です。
「真正性」の概念は韓国と北朝鮮以外ではほぼ通用しないからです。
また、この真正性ありきの彼らの考え方は暴走しがちであるため、大抵の場合韓国人から良心的日本人(例1 例2)と呼ばれている、私が日韓友好論者と呼ぶ人達が韓国人を補助する形で関わっている場合が多く、彼らの矛盾点などをこの日韓友好論者にぶつけるのも効果が大きいです。
基本的に問題を大きく深刻にしているのはこの日韓友好論者達ですから。
価値観や常識の違いから韓国人に対しての議論は無意味でも、こうした少しの回り道をすればいくらでもやりようはあるわけです。
ちなみに、数日前に私自身もtwitter上でやりました。
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