さて、本日は日本と韓国でまるで異なる価値観=常識の違いによって発生する、典型的な認識のズレについて書いていきます。
日本人と韓国人とでは、価値観=常識の違いがあることは以前から書いてきた通りであり、その結果「同じ物事を見ていてもまるで見え方が違う」事は以前から書いてきたが、これは見え方が違うというだけでなく、その結果として出てくる発想や結論もまるで異なるという事でもある。
その結果、外国の人々が韓国人に対して様々なアドバイスや忠告をしても、それが本人の意図とは全く異なる受け取られ方をする事例や、問題提起を行った場合の着地点がこちらの想定とはまるで異なるなどの事例が発生する。
このため、一見するとこのことを韓国人に伝えれば良いように思えるが、実際にはそれが彼らにとって「非常識」にしか受け取られないことが多く、むしろ余計に状況を悪化させる可能性があり、尚更「こちら側が彼らとの発想の違い」を事前に知っておくことが重要となると同時に、日本人の常識で韓国人の行いを判断することが非常に危険である事が解る。
※一部を除き、引用記事が日本語の場合には文中にリンク用アドレスとタイトルのみ表記、韓国語のものやリンク切れで参照不能な記事のみ文末にまとめて本文を引用します。
※本文中のリンクは引用の元記事、或いはインターネットアーカイブやウェブ魚拓(別サイト)へのリンクです。
1:根本から発想そのものが異なる
まずはこちらの記事から
【コラム】ノーベル文学賞、受賞の鍵を握る翻訳に韓国政府は投資せよ
朝鮮日報 2016/10/14
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/10/14/2016101401126.html
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/10/14/2016101401126_2.html
インターネットアーカイブ
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ノーベル文学賞は「酸っぱいブドウ」ではない
ノーベル文学賞への強迫観念から逃れたい人たちは「文学は楽しめばそれでいいのに、なぜノーベル賞を期待するのか」などと言う。この種の考え方は韓国よりも英国やフランスといった文学先進国でよく語られるようだ。韓江(ハン・ガン)氏の小説『ベジタリアン(原著タイトル:菜食主義者)』を英語に訳し、韓江氏と共にマン・ブッカー賞を受賞したデボラ・スミス氏も、今年6月に来韓した際「ノーベル文学賞に対する韓国人の執着は理解できない」と述べた。彼女の言葉に同意する人も多かった。しかし記者はスミス氏がこう述べた際、英国人がこれまでノーベル文学賞を9回受賞したことを思い起こした。韓国もノーベル文学賞を9回受賞すれば、このようなことを言う人が出てくるかもしれない。
「ノーベル賞にはこだわらない」という言葉は作家たちもよく口にする。フランスのノーベル文学賞作家ル・クレジオやモディアノも「賞を取るために作品を書いたことはない」と語る。しかしフランスはノーベル文学賞を15回も受賞している。
「ノーベル文学賞に執着せず、文学そのものを楽しもう」という言葉は、ノーベル文学賞を1回でも受賞してから言っても遅くはない。「ノーベル文学賞の強迫観念」に対する指摘は、イソップ物語の「酸っぱいブドウ」を思い起こさせる。高い木になっているため手に入らないブドウについて、キツネが「どうせ酸っぱくてまずいからいいや」と考えて自分を慰めるのと同じく、何か後ろめたい。もちろん作家や読者たちが「賞よりも作品」と言うのは理解できる。しかし文学は個人が楽しむ「芸術」の側面だけではないため、国家次元ではまた異なった考え方を持つべきだろう。文学は出版、映画、アニメなどに従事する人たちが生活の基盤とするコンテンツ産業の基盤にもなる。コンテンツ産業の育成にノーベル文学賞がもたらすプラスの効果は大きく、そのためにも決してたやすく諦めるべきものではない。
(後略)
まずこの記事なのですが、これを読んで日本人なら多くの人は「デボラさんは『酸っぱいブドウ』の意図でノーベル賞に執着するなと言ったのではないだろ」と突っ込みを入れたくなるでしょう。
私達がこうした反応をするのはなぜなのかと考えた場合、そもそも作家はなぜ作品を書くのか、学者はなぜ研究をするのかという部分に行き着きます。
(韓国人の言動に疑問を感じたら、まずこの発想を持つことが重要です)
ノーベル賞を取りたいという目標があってもいいですが、同時に究極的には作家は自身の表現したい内容を文章化したいから作品を書くわけですし、学者は文字通り「知りたい」「解明したい」から研究を行うという目的があり、本来ノーベル賞はその副産物と考えるのが常識です。
記事中のデボラ・スミス氏も、要するにこの発想から「ノーベル文学賞に対する韓国人の執着は理解できない」と答えたわけであり、恐らくそこにはノーベル賞ありきで物事を進めようとする韓国人への忠告もあったのでしょう。
しかし彼らの発想はまるで異なっており、記事中でもあるようにこの忠告を「酸っぱいブドウ」と解釈し、「そう考えられるのは一度でもノーベル賞を取っているからだ」と、ノーベル賞ありきの発想を行っています。
また、以下の朝鮮日報や中央日報の記事の場合
【コラム】「ノーベル賞をもらえる変人」を育てるということ 朝鮮日報 2016/10/13 (1/2ページ) (2/2ページ)
【コラム】勇敢に理系に進んだところでノーベル賞も就職も解決するのか=韓国 中央日報 2016年10月14日
まず朝鮮日報の記事では、タイトルにもあるように「ノーベル賞を得るために変人を育成せよ」としており、彼らが「どのような研究をするか」よりも「どうやってノーベル賞を取るか」を重視していることがわかります。
中央日報の記事の場合、理系か文系かで就職が有利になるだけである事を批判している記事ですが、この記事は根本的に「就職目的の理系か文系か」を「ノーベル賞を取るための理系か文系か」と発想を変えようという意図なので、私達の常識からは「根本が何も変わっていない」ようにしか見えません。
なぜこうなるのかといえば、彼らの社会は徹底した序列社会であるため、どんな研究をしているかよりも「権威を手に入れて序列を上げること」が社会的に重要だからであり、また民族主義的な視点から「日本人が取れているのに韓国人が取れないのはおかしい」と感じているからです。
要するに彼らの発想では、どんな研究をするかを目的化するよりも、「ノーベル賞そのものを目的化すること」のほうが重要であり、研究内容や作品の内容ははっきり書けば二の次なのです。
表現を変えると、彼らの常識では「何をするか」よりもその行為の結果として得られる評価や権威のほうがずっと重要であり、この事からも常識が異なるとそこから出てくる発想や結論も全く異なるものになることが良くわかる事例です。
2:「どこに着地させるか」が異なっている
次に今でも韓国で騒がれているいわゆる「大阪の寿司わさび事件」なのですが、まずここで考えてもらいたい事として、「なぜ差別問題を訴えるのか」があります。
日本において一般的には、差別問題を指摘することで差別をなくしていくことが目的であり、重要なのは差別行為をする人よりも「何が差別になるのか」という内容となります。
なぜなら「人」に重点を置いてしまうと、例えばテレビ朝日の羽鳥慎一アナウンサーによる「それを相手が(差別と) 感じたなら、それは差別だ。気をつけた方がいい」が成り立つわけですが、たとえば前々回の記事で言及したハンギョレ新聞による「観光客減少を差別問題と定義した記事」などが問題になります。
この事例では、日本人観光客減少の原因として、韓国側が対策をしてもなくならないぼったくり問題やサービス不備の問題、為替変動など「本来の減少の原因」があっても、「相手が差別と感じたなら差別だ」としてしまうとこれも「差別が原因」というおかしなことになるからです。
これでは差別がなくならないどころか冤罪の山が出来上がるだけです。
だからこそ、差別の内容がどんなものなのかを重視することで「差別をなくす事」という目的を着地点とするわけですが、一連のわさび事件問題を見ていると、そもそも韓国側が目指す着地点は「差別をなくす事」ではない事が解ります。
たとえば以下の記事の場合
「わさびテロ」の批判に、「わさび抜き寿司」で仕返し? 東亜日報 October. 13, 2016
「わさびテロ」市場ずし、今度は韓国人客にさび抜き 朝鮮日報 2016/10/13
これは、「わさびを多く入れて欲しい」という要望も「わさびを多く入れるのは差別だ」とする批判も、その両方に対応するために、店側が「わさびと寿司を別々に出す」対策を取ったと公式にアナウンスをした結果です。
にも関わらず、彼らはこれを「差別だ」として韓国三大紙のうちの二紙が批判しているわけですが、要するにこれは「相手の意見や考えを聞く意思が無い」という事がはっきりと解ります。
また、以下の事例では
(※1)
"私はそれを食べてみましょう"わさびテロ寿司間イ・ヨンドンPD 中央日報(韓国語) 2016.10.12
イ・ヨンドンPD、「わさびテロ」日寿司屋行ってみると「回・ご飯・わさび別々に」 スポーツ韓国(韓国語) 2016/10/12
こちらでは上記の事例をテレビ局が煽っているうえに、元動画がyoutubeにアップされていたので確認したところ、まず当初は騒ぎが発生した店舗へ行って謝罪を要求しますが拒否され、その後同じチェーンの別の店へ来店してしつこく謝罪を要求し、最終的に謝罪を取り付けるということをやっていました。
該当番組
https://www.youtube.com/watch?v=Scb3yCguPFA
謝罪は40:30頃から
以前も書いたように、そもそもこの問題は店側に作為があったのかなかったのかすら不明確であり、全てを客観性の無い証言のみに依存し「差別問題」としている事が問題だったわけですが、これら事例では目的が「差別をなくす」ではなく「差別を見つける」(=相手の落ち度を見つける)事になっています。
どうしてこうなるのかは以前から書いていますが、韓国社会では一般的に他者の劣等性の指摘が自己の優越性の担保となっている事や、「被害者になる事」ができれば序列社会の韓国では加害者の劣等性によって相手よりも序列が高くなるという独特の価値観があるからです。
だからこそ、彼らは「差別をなくす」よりも積極的に「差別(相手の劣等性)を見つける」という行動に出るわけです。
発想としては、数年前に問題となったアメリカのニューヨーク市クイーンズ地区で発生したマクドナルドの韓国系高齢者による占拠問題と同じです。
ニューヨークのマクドナルド、韓国人の高齢者が占拠 International Business Times 2014年2月5日
この事例は価値観=常識の違いが非常に良く解ります。
彼らの着地点は日本人の一般的な考え方である「差別をなくす事」ではなく、「差別(=相手の劣等性)」を見つけて相手よりも序列が上になる事を着地点としており、根本から発想が異なっている事を示す典型例なのです。
3:発想や着地点の違いを指摘する
今回書いたように、価値観=常識が異なればその先にある発想や解決法、また着地点もまるで異なる事になります。
こうした価値観=常識の違いから来る齟齬は何も韓国との間だけで発生するわけではなく、たとえば日本と諸外国との間でも「日本人は曖昧すぎる」と批判されたりする事例や、日本社会の秩序を「素晴らしい」と表現するか「自殺の多い窮屈な管理社会」と表現するかの二極化に分かれる事例などいくらでもありあます。
結局のところ、これは国や民族や地域によって常識が異なっており、それぞれが自身の常識によって他を判断しているから発生する事であり、こと韓国の場合には日本と「極端に違う」からこそ目立つし問題になるわけです。
だからこそ韓国との間で発生する問題は優劣や善悪ではなく「違い」となるわけなのですが、結局のところこの問題の解決策は「郷に入っては郷に従え(=相手の国では相手の国の常識が優越する)」くらいしかありません。
そして問題は、韓国人の多くは自分達の常識が世界で通用する常識だと考えている事であり、日本人は最近は「外国と日本の間の常識の違いがある」と理解し始め変わってはきましたが、それでもこと韓国に関しては今でも「韓国でも日本の常識が通用する」と思い込んでいる人が多い事です。
韓国人達から「良心的日本人(例1 例2)」と呼ばれている、私が便宜上「日韓友好論者」と呼んでいる人達は、多かれ少なかれこの傾向があり、違いを指摘する行為すらも日本人の常識に当てはめて「差別問題」に摩り替える傾向にあります。
今回の事例でも、彼らはこの問題を差別問題として取り上げて韓国側に同調していますが、実態は今回書いたようにその多くが価値観=常識の違いから来る問題です。
韓国人に関しては、そもそも「一つの正しさ」に拘る傾向にあるため、違いを指摘してもそれを「相手の劣等さ」としか考えない場合が多く、違いがある事を伝えてもまったくの無意味になりがちですから、「それは受け入れられない」と結論として態度で伝えるしかありません。
しかし日韓友好論者に関しては、彼らは日本で「日本の常識」の中で生きているのですから、単にその「安易な韓国側への同調」を批判するよりも、今回書いたように常識の違いから「日韓で着地点が異なっている事」を指摘することが最も効果的です。
「彼らは差別をなくしたいのではなく、差別を見つけたいのだ」「日本人の常識に当てはめて彼らに同調しても決して問題は解決しない」と。
ちなみにこれは、日韓友好論者のうちどんな事でもイデオロギー問題にこじつけてしまうような相手に対しても、第三者にも見える形で行えば非常に効果的です。
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以下は当ブロマガのお勧め記事マイリストです、もしよかったらこちらもどうぞ。
(※1)
"私はそれを食べてみましょう"わさびテロ寿司間イ・ヨンドンPD
中央日報(韓国語) 2016.10.12
http://news.joins.com/article/20714483
最近、日本で浮上したわさびテロ問題に対し、イ・ヨンドンPDが生放送を行った。
日本の大阪で行われた生放送は、イ・ヨンドンPDが問題の寿司屋を訪問する様子をカメラに収めた。
イ・ヨンドンPDに出された寿司は、わさびが全くない状態だった。わさびを入れて食べられるよう、皿の隅に別にわさびが置かれていた。
イ・ヨンドンPDは、「なぜわさびを入れてくれないのか」と尋ねると、店の主人は、「会社の方針だ」と話した。続くイ・ヨンドンPDの質問にも、継続して回答を回避する姿を見せた。
他の場所に移動したイ・ヨンドンPDは同じく、「会社の方針」という回答を聞いた。イ・ヨンドンPDの執拗な追及に店の主人は結局、わさびテロに対して謝罪して、「今後は日本人に出すのと同じように、韓国人にもわさびを適量入れる」と答えた。
一方でわさびテロと関連して、高位関係者の取材や隠された事実など、これらに関する取材が不足しているという意見もあった。イ・ヨンドンPDはライブ中継の最後に、「来る14日、ドキュメンタリーを通じてさらに詳細な取材現況を放送する計画だ」と明らかにした。
イ・ヨンドンPD、「わさびテロ」日寿司屋行ってみると「回・ご飯・わさび別々に」
スポーツ韓国(韓国語) 2016/10/12
http://sports.hankooki.com/lpage/entv/201610/sp20161012132006136710.htm
イ・ヨンドンPDが、『わさびテロ』で物議を醸した日本の某寿司屋を訪問した。
イ・ヨンドンPDは11日、自分のインスタグラムに、「今後は最初からわさびを抜いて別に出すらしいです。軍隊じゃないか?」、「これは寿司ではなく、フェ(膾)にパプ(ごはん)を包んで食べるのです」というコメントとともに、写真および映像を公開した。公開された資料の中には、イ・ヨンドンPDが注文した寿司の様子が写っていた。 フェ別に、パプ別に、わさび別に提供されていて注目を集めた。
これを見たネチズンは、「わさびをたくさん入れてくれるよりも一層気持ち悪いですね」、「新たな方向に食べさせるようです」、「さらにウップンゴン(笑わせる?)なのは、日本人には正常な寿司を出してます」、「今回の事件は組織的な嫌韓の一部分」、「どのくらい嘲笑っているのだろう、食べにくる韓国人を見ながら」、「遠慮なくわがままをするよ」などの反応を見せた。