日韓問題(初心者向け)

日韓問題について、初心者でもわかりやすい解説と、日韓問題とマスコミ問題の動画のテキスト版を投稿しています。

【ゆっくり解説】朝日新聞の慰安婦報道検証 part2/2

さて、本日は前回に引き続き2014年の朝日新聞による慰安婦報道訂正問題について扱っていきます。



本日の投稿動画
www.nicovideo.jp
youtu.be


元記事
朝日新聞 吉田証言問題 慰安婦編 1
http://ooguchib.blog.fc2.com/blog-entry-396.html
朝日新聞 吉田証言問題 慰安婦編 2
http://ooguchib.blog.fc2.com/blog-entry-397.html
慰安婦訂正報道における朝日新聞の誤魔化し
http://ooguchib.blog.fc2.com/blog-entry-398.html


以下は動画のテキスト版です

お品書き

金学順証言

妓生の実態

注意
・この動画は「マスコミ問題」を扱っています

・「マスコミ問題」であり右派・左派等の陣営論争は本題ではありません

・「特定の国との特別な関係」は問題の枝葉です、主問題は業界の体質です

・自身の常識が相手にとっても常識とは限りません、「他者がそれを見たらど
う思うか」という客観性を常に持ちましょう。

・日常生活で注意する程度には言動に注意を心がけてください

・リクエストは原則受け付けていません

・引用ソースへのリンクが同時掲載のブログにあります

・毎週土曜日更新


レイム マリサ
ゆっくりしていってね


マリサ
さて、今回は前回に引き続き朝日新聞による慰安婦報道訂正問題について扱っていくぜ。


レイム
で、前回は朝日新聞が釈明で「慰安婦の証言こそが証拠」としていたにも関わらず、実際には慰安婦の証言は何の検証もされていなかったという内容を扱ったわね。


レイム
で、今回は2番目に扱った証言に出てきた「養子」に関して、私たちの想定する養子とは定義が異なっているってところで終わったわね。


マリサ
そうだぜ。
この辺りを整理して順を追って説明すると、朝日新聞慰安婦問題の何が一番問題なのかが見えてくるんだぜ。


レイム
なるほど。


マリサ
そんなわけでさっそく本編へ行くぜ。


金学順証言


レイム
で、まずは韓国で「最初に名乗り出た慰安婦」とされている金学順について扱うの?


マリサ
そうだぜ。
この人物は既に亡くなっていて、検証する事すらタブーにするような論調さえあるが、この人物の証言って慰安婦問題とは何かを知る上で非常に重要なんだぜ。
まずはこちらの記事を見てくれ

記事を訂正、おわびしご説明します 朝日新聞社
慰安婦報道、第三者委報告書
朝日新聞 2014年12月23日
https://www.asahi.com/shimbun/3rd/2014122337.html

(前略)
「元慰安婦、初の証言」の記事について
「女子挺身隊」「連行」の記述訂正

日中戦争第2次大戦の際、『女子挺身(ていしん)隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり……」(91年8月11日付朝刊社会面〈大阪本社版〉)
 これは、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」との見出しで掲載した記事の前文部分です。記事は、韓国人の元慰安婦の一人が初めて、自らの過去を「韓国挺身隊問題対策協議会」に証言したことを、録音テープをもとに伝えました。
 しかし、同記事の本文はこの女性の話として「だまされて慰安婦にされた」と書いています。この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません。
 前文の「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」とした部分は誤りとして、おわびして訂正します。
 第三者委員会に対し、筆者の植村隆・元記者(56)は「あくまでもだまされた事案との認識であり、単に戦場に連れて行かれたという意味で『連行』という言葉を用いたに過ぎず、強制連行されたと伝えるつもりはなかった」との趣旨の説明をしたといいます。
 第三者委は報告書で、「だまされた」事例であることをテープ聴取で明確に理解していたにもかかわらず、この前文の表現は「『女子挺身隊』と『連行』という言葉の持つ一般的なイメージから、強制的に連行されたという印象を与える」などと指摘しました。
 また報告書は、挺身隊と慰安婦の混同について、91年から92年ころにかけて両者の違いが急速に意識されるようになるまでは、「両者を混同した不明確な表現が朝日新聞に限らず多く見られたという実態があった」との見解を示しました。朝日新聞は今年8月の検証記事で、この記事に「意図的な事実のねじ曲げはない」と結論づけました。報告書はそれだけでなく、「読者に正確な事実を伝えるという観点から、前文部分の記載内容も含め、さらに踏み込んで検討すべきであった」としました。この指摘についても、重く受け止めます。
 この記事には、過去記事を閲覧できるデータベース上で、挺身隊の混同がみられたことから誤用したことを示すおことわりをつけています。今後、改めて、「この女性が挺身隊の名で戦場に連行された事実はありません」といったおことわりをつけます。

三者委 元記者の「事実ねじ曲げ」否定

 植村氏が91年に書いた記事2本には、他メディアから疑問が示されていました。
 一つは、91年8月、録音テープの提供を受けて元慰安婦の証言を匿名で報じた際、後に元慰安婦らの裁判を組織した韓国の別団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」の幹部だった義母のつてで取材し、裁判を有利に進めるために記事を書いたり内容を変えたりしたのではないかという疑問です。
 この点について第三者委は、植村氏から「ソウル支局長から紹介を受けて挺対協のテープにアクセス(接触)した」という説明を受けたとし、前年に韓国で元慰安婦を捜す取材をした経緯も踏まえ、この説明を「不自然ではない」としました。北海道新聞が直後にこの元慰安婦を直接取材し、実名で報じたことにも触れ、「記事を書くについて特に有利な立場にあったとは考えられない」「縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない」と結論づけました。
 また、この元慰安婦がキーセン(妓生)を育成するための学校に通っていた経歴を書かなかったことへの疑問も出ていました。報告書は、植村氏が続報記事「かえらぬ青春 恨の半生」(91年12月25日付大阪本社版朝刊5面)を書いた時点で、この元慰安婦らが起こした裁判の訴状などから経歴を知っていたとし、こう指摘しました。
 「キーセン学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。『キーセン』イコール慰安婦ではないとする(植村氏の)主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった」
(後略)

マリサ
朝日新聞が2014年12月に第三者委員会の報告を投稿しているんだが、そのなかで「第三者委員会に対し、筆者の植村隆・元記者(56)は「あくまでもだまされた事案との認識であり、単に戦場に連れて行かれたという意味で『連行』という言葉を用いたに過ぎず、強制連行されたと伝えるつもりはなかった」」と釈明しているとしているぜ。


マリサ
そのうえで、「キーセン(妓生)学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。『キーセン』イコール慰安婦ではないとする(植村氏の)主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン(妓生)学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった」と書かれているな。


レイム
ここで重要となる論点は、時系列上キーセン(妓生)と慰安婦は別であり、元々キーセン(妓生)学校に通っていたところ騙されて慰安婦にされたとなっている事ね。


マリサ
そうだぜ、この辺りは後々詳しくやるとして、これを踏まえて次にこちらの韓国メディアの記事を見てほしいぜ。

NYタイムズが24年経て金学順さん死亡記事 初の慰安婦証言
聯合ニュース 2021.10.26
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20211026001300882

【ニューヨーク聯合ニュース】米紙ニューヨーク・タイムズが25日(米東部時間)付紙面のおくやみ欄で、1997年12月に死去した旧日本軍慰安婦被害者である韓国人女性、金学順(キム・ハクスン)さんの死を伝えた。同紙は、注目すべき人物の「見落とされた(Overlooked)」死を遅ればせながら伝え、その人生にスポットライトを当てる取り組みの一環として、金さんを取り上げた。

 金さんは1991年8月14日に韓国で初めて、旧日本軍慰安婦としての被害を公の場で証言した。ニューヨーク・タイムズは紙面を大きく割き、金さんの人生と証言の意味を振り返った。死去から24年を経て、米国をはじめとする全世界の読者に慰安婦被害者問題をあらためて提起したことになる。

 記事は金さんの91年の記者会見の場面から始まる。金さんの証言が「日本の多くの政治リーダーたちが数十年間否定し続けてきた歴史に生きた力を与えた」と評した。性暴力被害について沈黙を守ることが一般的だった当時の韓国社会において金さんの証言は勇気が要ることで、これに世界各国の慰安婦被害者の証言が続いた。

 日本軍による慰安所運営を反人道的な犯罪と指摘する報告書を98年にまとめた当時国連特別報告者のゲイ・マクドゥーガル氏が、先ごろのカンファレンスで「私が報告書で書いたいかなる内容も、金さんの30年前の証言が与えた影響力には近寄りようがない」と発言したことも、この記事は伝えた。

 韓日関係を研究する歴史学者、アレクシス・ダデン米コネチカット大教授はニューヨーク・タイムズとのインタビューで「金さんは20世紀の最も勇敢な人物のうちの一人」とたたえ、歴史学者たちによる慰安婦問題研究が本格化したのも金さんの会見のおかげだと述べた。

 記事はまた、金さんが初めて会見した8月14日が韓国の記念日「日本軍慰安婦被害者をたたえる日」に定められていることも紹介した。

 一方、この企画では2018年3月に、韓国の独立運動家、柳寛順(ユ・グァンスン、1920年死去)の死亡記事を掲載している。

マリサ
記事ではニューヨークタイムズが報じた内容として、金学順証言について「金さんは1991年8月14日に韓国で初めて、旧日本軍慰安婦としての被害を公の場で証言した」と書かれていて、これが発端となったと書かれているな。


レイム
でもこれ、色々とおかしいのよね。


マリサ
そうなんだぜ。
次に文春の2020年の記事を見てほしいんだが、事前に少し説明しておくと、この記事の主題は挺対協(現正義記憶連帯)とその代表だった尹美香が、どのようにして慰安婦問題を乗っ取っていったかについて書かれているんだが、その中の一部に慰安婦問題の本質を知る上で重要な内容が含まれているんだぜ。

「まずいな、と思いました」30年寄り添った日本人が語る「慰安婦問題」の真実
文春オンライン 2020/06/04
https://bunshun.jp/articles/-/38177?page=3

(一部抜粋)
金学順さんは慰安婦第一号ではない

 いま金学順さんが、名乗り出た慰安婦の第一号とされていますが、実はそうではありません。

 私は1984年に裵玉水(ペ・オクス)さんという元慰安婦のかたを取材したことがありました。『レディキョンヒャン』という韓国の女性雑誌に彼女の記事が出ていて、編集長から紹介してもらったのです。

 ペさんは16歳のときに「いい仕事がある」と騙され、身売り同然でミャンマー奥地まで連れて行かれ慰安婦となった女性でした。

 彼女は辛い経験を語りながらも「日本兵も可哀そうだった」と涙を流しました。アジアの奥地で日本軍が壊滅していく中、なんとか生き延びた女性がペさんだったのです。

 ペさんは戦後ベトナムで生活していましたが、ベトナム戦争後「外国人は粛清される」という噂を聞き出国を決意。子供5人を連れ難民として韓国に戻ってきました。

 私が行ったペさんへのインタビューは84年にTBS「報道特集」で放送されました。韓国内では『レディキョンヒャン』だけではなく中央日報でもペさんのことが記事になりましたが、当時は元慰安婦を助けようという世論が日韓で湧いてくることがありませんでした。

金学順さんの証言が二転三転したことで……

 太平洋戦争犠牲者遺族会の中にはもう一人Aさんという元慰安婦もいました。彼女に私は90年12月に話を聞きました。証言は詳細でした。しかし、Aさんには養女がいた。彼女は「養女に自分の過去を話していないので実名を公表することはできない」と言うので、仮名でしか出せなかった。

 つまり金学順さんの前にもすでに2人、慰安婦だと名乗り出た女性はいたのです。

 私は前述のように不安を感じました。おそらく金学順さんは、裁判をするにあたってキーセンのことはマイナスになると考え隠したいという気持ちがあったのだと思います。

 翌年の1月、宮沢喜一首相(当時)の訪韓により、日韓問題に注目が集まり「私は元慰安婦だった」と申告する人が急増しました。その中の1人に金田きみ子(軍隊名・日本軍の衛生兵によってつけられた名前)さんがいました。

 私は金学順さんを第1号証言者とすることを回避する、という決断をしました。92年6月1日の初公判では、金田きみ子さんに証言をお願いしました。彼女は慰安婦として7年ものあいだ日本軍に従軍していた女性です。その証言は明確で、日時や場所など全て裏付けがとれるものばかりで真実相当性が高いと考えました。

 金学順さんの証言のブレは、慰安婦問題を語るうえで、後世に大きなシコリを残すことになりました。発言が二転三転したことで、日本側から「売春婦だった」、「慰安婦問題はなかった」などの酷い言論を誘発する事態となってしまったからです。

(インタビュー・赤石晋一郎)


マリサ
記事では臼杵敬子氏という、慰安婦問題に初期から関わってきたライターの告発が書かれているんだが、そのなかで「1984年に裵玉水(ペ・オクス)さんという元慰安婦のかたを取材したことがありました」と書かれていて、「金学順が慰安婦と名乗り出た第一号というのは間違い」としているんだぜ。


レイム
そうなのよね、なぜか日本でも韓国でも金学順が最初となっているけど、実のところ記事にもあるようにそれ以前にも証言者がいたのよね。


マリサ
で、なんでこんなことになっているかなんだが、これのヒントとなる事が東大教授の秦郁彦氏の著書に書かれていて、

慰安婦と戦場の性 (新潮選書) 単行本(ソフトカバー) – 1999/6/1
秦 郁彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4106005654


マリサ
実はいわゆる吉田証言が大きく韓国で取り上げられた当初、韓国内では「そんなことはあるわけがない」という世論が大半で、1989年8月14日に済州新聞の記者が現地取材をしてみると「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」という証言が出てきたと書かれているぜ。


マリサ
また、済州島郷土史家の話として、「慰安婦狩り」の話を「「日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物」と批判していたとも書かれているな。


レイム
つまり、1980年代の時点では「軍や国の命令で軍人や官憲が行った拉致や動員」という慰安婦の定義は、韓国内で否定されていて定着していなかったという事よね。


マリサ
あと裵玉水(ペ・オクス)証言が広まらなかった理由として、「日本兵も可哀そうだった」と証言していて、プロパガンダに使うには弱かったというのもあったんだろうな。
ただし、この人物の名前は時々今でも韓国メディアで出て来るぜ。


レイム
そうなのよね。
「第一号ではない」という批判があると、思い出したかのようにこの人物の名前が出てきて、またしばらくすると「慰安婦証言者第一号の金学順」という内容に戻るのよね。


マリサ
そしてもう一つ、この記事には金学順証言の重要な部分があるんだぜ

「まずいな、と思いました」30年寄り添った日本人が語る「慰安婦問題」の真実
文春オンライン 2020/06/04
https://bunshun.jp/articles/-/38177?page=2
(一部抜粋)

裏付けが弱い金学順さんの証言

 私たちのヒアリング作業は、ソウル市光化門近くにあるネジャーホテル(内資ホテル)で行っていました。太平洋戦争犠牲者遺族会の活動を聞きつけた同ホテルのオーナーが無償で部屋を提供してくれ、私たちは同所を拠点として被害実態の調査に明け暮れる日々を過ごしていました。

 金学順さんのヒアリングは、私と裁判で主任弁護士を務めた高木健一氏で行いました。当時の金学順さんは60代後半にしては若く見え、話し方も理路整然としていました。

 金学順さんは私たちに対して「平壌からトラックに乗せられて強制連行され慰安婦にされた」という話をしていました。

 問題が起きたのは提訴直前でした。高木弁護士から私のところに一本の電話が来たのです。

高木「金学順さんの話なんだけど、私たちが聞いた話と他のマスコミに言っている内容が違う。知ってる?」

臼杵「ぜんぜん気が付かなかった。そうなの?」

高木「そうか。もう裁判だし。こちらでなんとかしよう」

 慌てました。報道等を確認すると、金学順さんはキーセン学校に通い、キーセンの養父とともに満州で仕事をしていたというのです。その後、北京に立ち寄ったところで日本軍に捕まり慰安婦にされた、という話が語られていることがわかりました。まずいな、と私は思いました。

 キーセンは日本で言う芸者のことです。キーセンという言葉は、裁判では誤解や偏見を招く可能性があると思ったのです。

金学順さんが日本軍に連れて行かれたという鉄壁鎮(てっぺきちん)という場所も中国地図から見つけることが出来ませんでした。彼女が慰安婦だった期間も3か月ほどであり短い。

 私は金学順さんの証言では、慰安婦問題を正しい形で提起するためには、裏付けが弱いと感じた。しかし、弁護団の方は、顔を出して肉声で被害を訴えることが出来る人は金学順さんしかいないと、原告とすることを決めたのです。

 私は提訴後、彼女の証言にあやふやなところがあったので「ウソを言ったらダメよ」と言いました。でも金学順さんは「私は間違ったことは言ってない」と頑なでした。

マリサ
実は金学順証言も矛盾があって、記事では「金学順さんの話なんだけど、私たちが聞いた話と他のマスコミに言っている内容が違う」という連絡が臼杵氏にあったと書かれているんだぜ。



マリサ
当初のヒアリングでは「平壌からトラックに乗せられて強制連行され慰安婦にされた」と言っていたのが、マスコミへの証言では「キーセン(妓生)学校に通い、キーセンの養父とともに満州で仕事をしていた、北京に立ち寄ったところで日本軍に捕まり慰安婦にされた」となっていたそうなんだぜ。


マリサ
そして記事では「金学順さんが日本軍に連れて行かれたという鉄壁鎮(てっぺきちん)という場所も中国地図から見つけることが出来ませんでした。彼女が慰安婦だった期間も3か月ほどであり短い」「私は金学順さんの証言では、慰安婦問題を正しい形で提起するためには、裏付けが弱いと感じた。しかし、弁護団の方は、顔を出して肉声で被害を訴えることが出来る人は金学順さんしかいないと、原告とすることを決めたのです」と書かれているな。


レイム
つまり、朝日新聞の釈明では「金学順証言は正しい」という前提で書かれているけど、実際にはこの証言も裏付けが取れていないわけね。


妓生の実態


マリサ
でな、今回の本題はここからで、まず重要なこととしてさっきの記事では「キーセンは日本で言う芸者のことです。キーセンという言葉は、裁判では誤解や偏見を招く可能性があると思ったのです」と書かれているだんが、一次資料からは全く別のキーセンが見えてくるんだぜ。


レイム
色々とややこしくなるので、キーセンという片仮名ではなく、本来の漢字表記である「妓生」という表記で扱っていくわ。


マリサ
まず最初に北朝鮮系の朝鮮大学非常勤講師が、2004年に寄稿した記事で説明されている妓生では次のように書かれているぜ。

〈朝鮮歴史民俗の旅〉 妓生(1)
朝鮮新報 2004.10.30
https://megalodon.jp/2012-1115-0021-26/www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2004/06/0406j1030-00001.htm

妓生の本来の姿は特殊技能を持った女性である。鍼灸や歌舞の技能に優れ、必要に応じて社会に奉仕する技能集団であった。医療関係には尚房妓生・薬房妓生がおり、歌舞関係には声妓、歌妓、舞妓がいた。

 技能をもって社会に奉仕していたこれら妓生たちは、若くて美貌の持ち主であり、男性に接することの許された賎民だったので、自然に酒宴の席にも招かれていた。高麗の時代に、妓生は官妓として政府の「掌学院」に登録され歌舞を事業とし、宮中の宴会に出入りしていた。

 妓生の由来についてはいろいろな説があるが、「百済の柳器匠の子孫楊水尺が生草を求めて流浪するのを見て、高麗の人李義民が、男を奴婢に女は妓籍に登録して管理したが、これがもとになって妓生がはじまった」という、実学者丁茶山の説が最も有力視されている。

 儒教的道徳を重視した朝鮮王朝は、社会の秩序と風紀を乱しかねないと妓生制度の廃止を何度も試みた。妓生にかえて男寺党(旅芸人)を宴会に呼ぶこともあった。しかし、妓生は宴会の華であって、大の男がそれに代われるものではない。結局、妓生の制度は存続し、時代とともに強化されていった。

 朝鮮王朝は政府内に「妓生庁」を設けその管理にあてた。これは、歌舞など妓生に必要な技能はもちろん、行儀、詩作、書画のこころを教え、王族や上流階級に接するにふさわしい素養を身につけさせた。また、ソウルと平壌に「妓生学校」を設立し、15歳から20歳までの女性に歌舞、礼法の他、高度の礼儀作法と書芸を授け芸能と教養を完備させていた。

 朝鮮の妓生は官妓であった。官の社会は厳格な位階の秩序で維持されたものだが、妓生も例外ではなかった。彼女たちは一牌、二牌、三牌という三つの等級に分けられた。一牌は一級妓生。美貌で歌舞に長じた者たちで、王宮や上流社会の宴会に招かれた。二牌は二級妓生で、ある程度の技能を持ち下級官吏や中人を相手にしていた。三牌は三級妓生で技能をもたず、もっぱら酌婦として勤めた。

 妓生には夫がおり、妓夫と呼ばれた。夫婦の関係でもあり、俳優とマネージャーといった関係でもあった。妓夫は妓生の財産を管理したが、時には使用人としても働いた。夫がいることで、妓生は宴会の歌舞をうまくこなすことができ、男たちの侮辱や嫌がらせから身を守ることもできた。妓夫に指名されたのは公務員である司法や警察、軍などの下級官吏だった。

 朝鮮王朝時代、妓生で有名になった都市がいくつかあったが、そのトップは平壌であった。当時、平壌は柳京とも呼ばれた。柳には遊興を楽しむという意味がある。晋州と海州、北の義州、南の釜山なども有名であった。行政と軍事の拠点であったこれらの都市は、官吏や軍人の出入りが頻繁で、その分、妓生の出番も多かったと言える。

 主たる任務は宮中や官邸の宴会を盛り上げること。彼女たちは国王が狩や花見などから王宮に戻ると、行列の先頭に陣取って国王賛美の歌舞を披瀝し、宴会の席では、高位官僚たちと時調や漢詩を交わしながら酒席の雰囲気を盛り上げた。外国の使臣を迎えての宴席では、清楚で美しく慎み深く振る舞った。

 日常の仕事は高位官僚の私的な宴会に呼ばれて技能を披露し、酌婦としての勤めを果たした。誕生祝や還暦祝いなど、宴会好きの両班にとって妓生はなくてはならない存在であった。私的な行事では国事と違い、宴幣と呼ばれる出演料が支払われたため、妓生にとっても大きな楽しみであった。
(後略)

マリサ
妓生の始まりは百済や高麗であるとしたうえで「妓生の本来の姿は特殊技能を持った女性である。鍼灸や歌舞の技能に優れ、必要に応じて社会に奉仕する技能集団であった」「技能をもって社会に奉仕していたこれら妓生たちは、若くて美貌の持ち主であり、男性に接することの許された賎民だった」としているな。


マリサ
そのうえで、当初は「妓生は官妓として政府の「掌学院」に登録され歌舞を事業とし、宮中の宴会に出入りしていた」と書かれているぜ。


マリサ
そして時代進み李氏朝鮮時代にも存在しており、「一牌、二牌、三牌という三つの等級に分けられた官妓」であり、「妓生には夫がおり、妓夫と呼ばれた。夫婦の関係でもあり、俳優とマネージャーといった関係でもあった」「妓夫に指名されたのは公務員である司法や警察、軍などの下級官吏だった」としているぜ。


レイム
ここまでなら、まあ「官営の芸者のようなもの」という事でも通るわね。


マリサ
問題は後半に書かれている事だぜ。


〈朝鮮歴史民俗の旅〉 妓生(1)
朝鮮新報 2004.10.30
https://megalodon.jp/2012-1115-0021-26/www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2004/06/0406j1030-00001.htm

(前略)
 妓生は歌舞が売物であったが、性を提供することもあった。身分的には賎民、官卑であったので両班・官僚の命令とあれば拒むことはできなかった。この場合の妓生を房妓生・守廳妓生といった。守廳とはもともと官吏の就寝時に廊下で主人の部屋を守ることであったが、いつしか転じて、寝室にはべること、お伽の相手をするという意味になっていった。

 妓生に守廳を求められるのは奉命使臣に限られていた。地方の官吏や豪族であっても妓生を相手に性を求めることは、法によって固く禁じられ、それを犯せば百たたきか罰金刑に処せられた。奉命使臣とは中央政府が派遣する特命の官吏で、監察使や暗行御使などである。

郡や県の守令たちは、彼ら奉命使臣がその地に赴いて申し出れば、妓生を提供しなければならなかった。これは法の決まりである。

妓生は両班社会で「解語の花」と言われていた。人間の言葉を解する口と耳をもった花という意味だ。侮辱的な表現だが、妓生の社会的地位はその程度のものに過ぎなかった。だが、見方によっては、妓生は最も自由な女性たちであったとも言える。

 両班家の主婦のように、「婦道」の厳しいしきたりに縛られることもなかった。華やかな着物を身にまとい、派手に化粧をし、馬やかごに乗ることも許された。

 朝鮮王朝全時代を通じて、妓生を巡るスキャンダルが絶えなかった。両班が夫婦の愛情に飢えていたからだ。正妻はいても夫婦は信義と礼節で結ばれるもの。正妻は子を生み育て家庭を守る人に過ぎない。一方、妓生といえば、苦境を脱して人間らしく生きたいという強い願望を持っていた。両者のこの欲求が、途方もない行動に身を任させた。(朴禮緒、朝鮮大学校文学歴史学部非常勤講師)


マリサ
記事では「妓生は歌舞が売物であったが、性を提供することもあった。身分的には賎民、官卑であったので両班・官僚の命令とあれば拒むことはできなかった。この場合の妓生を房妓生・守廳妓生といった。守廳とはもともと官吏の就寝時に廊下で主人の部屋を守ることであったが、いつしか転じて、寝室にはべること、お伽の相手をするという意味になっていった」と書かれていて、妓生の正式な業務として「性的サービスがあった」と書かれているぜ。


レイム
ここで重要なのは、日本の芸者でもそういう行為はあったでしょうけれど、それが「公認された正式な業務ではなかった」という事ね。


マリサ
そして「妓生に守廳を求められるのは奉命使臣に限られていた」「法によって固く禁じられ、それを犯せば百たたきか罰金刑に処せられた。奉命使臣とは中央政府が派遣する特命の官吏で、監察使や暗行御使などである」と書かれているが、これは妓生のランクである一牌、二牌、三牌によって変わってくるぜ。


レイム
三牌にはそういう制限がなかったようだしね。


マリサ
そして次に

植民地朝鮮における公娼制度の確立過程」
京都大学大学院文学研究科・文学部・現代文化学系「二十世紀」編『二十世紀研究』第5号、2004年12月
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/seoul/index.html
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/seoul/seoul1.html#chap1

I 「併合」までの買売春管理政策
1. 朝鮮人接客女性の「出現」

  朝鮮開国(1876年)後、ソウルの性風俗状況に大きな変化をもたらす最初の契機となったのは、日清戦争(1894~95年)であった。植民地期の民俗学者・李能和の著書『朝鮮解語花史』(1927年)は、日本語の「遊女」に相当する朝鮮女性の総称として「蝎甫(カルボ)」という語を用い、ソウルに蝎甫が増えたのは「高宗甲午」年、すなわち日清戦争のはじまった1894年以降のことであると述べている。その背景には、ソウルの日本人花柳界が「日清戦争後、居留民の激増により、一躍進を為し」 )た事情があると見られる。1885年2月に日本の民間人のソウル居住が正式に認められて以来、日本領事館では売春業を禁じていたが(1885年4月、京城領事館達「売淫取締規則」)5)、日清戦争後には料理店が十数軒に増え、芸妓営業も公式に承認されたのであった(1895年5月15日、京城領事館達第11号「芸妓営業取締規則」6)。日本人居住地域における接客業の拡大は、朝鮮人性風俗意識にも当然、一定の影響を及ぼしたことであろう。

  さて『朝鮮解語花史』は蝎甫を、妓生(妓女、一牌)、殷勤者(隠勤子、二牌)、搭仰謀利(三牌)、花娘遊女、女社堂牌、色酒家(酌婦)などに分類している。このうち「花娘遊女」(漁場・収税地・僧坊などを行きかう売春婦)と「女社堂牌」(放浪芸能集団の構成員)はソウルへの立ち入りを禁じられていたので、さしあたり検討対象から除外して差し支えない。また各種接客婦の呼称・表記とその定義は論者によって違いがあり、本稿では「殷勤者」についてはより一般的な表記である「隠君子」を、「搭仰謀利」についてもより常用的な呼称である「三牌」を採用することにしたい。さらに「蝎甫」を「遊女」になぞらえる李能和の解釈にもいささかの問題が含まれている。朝鮮側文献では「蝎甫」を「色酒家」と同じ意味で使用するケースが多く、また日本人の論者は「蝎甫」を「妓生」と対照させて「売春婦」一般の意味で使用する例が多いからである。たとえば1916年に西脇賢太郎という日本人警察官僚(警視)が「朝鮮人芸妓は之を妓生と称し、一牌二牌三牌の区別あり。所謂上中下の意なり。何れも歌舞音曲の素養を有す。娼妓は蝎?と称し、売淫を専業とする者なり」7)と述べているのは後者の一例である。

  以上より、ここでは便宜上、ソウルの「接客婦」を妓生・隠君子・三牌・色酒家の四者に区分し、それぞれの性格を検討するところから議論をはじめることにしよう。

  ところで上記の西脇の説明で興味深いのは、一牌(妓生)・二牌(隠君子)・三牌をすべて広い意味での「妓生」の範疇に含めていることである。そこでしばしば日本の「芸妓」になぞらえて理解される傾向のある「妓生」についてまず検討しておきたい8)。

  朝鮮王朝時代の妓生は、基本的に中央や地方の官庁に所属する「官妓」であり、いわゆる「八賤」のひとつ―賤民の身分に置かれていた。その主な役割は、宮中・官庁で行事や宴会があるときに歌舞を演じ、出席者の接待にあたることである。ソウルで宮中行事などに参席する官妓は、中央官庁に所属する「京妓」と、地方官庁から送られてきた「郷妓」(または「選上妓」)―とくに平壌は名妓の産地として有名である―から構成されていた。また官妓は官吏の求めに応じて自宅で宴を催し、酒食を提供したり歌舞を披露することもあった。しかし妓生に対する国家の給与は充分ではなかったため、朝鮮王朝時代の後期になって、下級官吏が「妓夫」(または「妓生書房」「仮夫」)と呼ばれる後援者となり、この妓夫の仲介によって、特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取り、場合によっては妾として扱われるようになった。妓夫をもたない妓生は、彼女を養育し技芸を教えた収養父・収養母が同様の役割を果たしたという。一般に京妓は妓夫をもつケースが多く、郷妓はもたない者が多かったので、前者を「有夫妓」、後者を「無夫妓」と呼ぶ場合もあった。

  李能和の言う「妓生(一牌)」とは、以上のような官妓を指すものであった。ところが日清戦争期に朝鮮政府が実施した甲午改革(1894~96年)により身分制が廃止されたことで、妓生は賤民の身分から解放され、一方で「官紀の粛清」を理由に官妓制度も廃止されたのであった9)。官庁の所属から解かれ、給与がなくなった妓生は、新たな収入の途を探さなければならない状況に追いやられたのである。

  隠君子や三牌も、一牌と同様、自宅に客を招いて酒食を提供し、歌舞を演じる接客女性であったので、これらを「妓生」の範疇に含める先の西脇の理解もあながち的外れとは言えない。隠君子は高年齢(25~30歳程度)となり引退した元官妓が中心で、結婚をしなかったり、妓生の収養母などにならなかった場合は、官妓のころと同様に自宅で宴席を設け接客にあたったのである。一牌や三牌は日本の植民地化が進行するにつれ、日本人を客として迎える機会が次第に増えていったが、隠君子は公然たる営業を控えていたため、日本人にとっては最も馴染みの薄い存在であった。また三牌は、雑歌(民間に伝わる歌謡)を歌う程度の技芸しか身に着けておらず、妓生や隠君子のような伝統芸能の素養を備えてはいなかった。したがって一牌・二牌を「妓生」、三牌を「準妓生」と分類する見方もある10)。そして隠君子と三牌も場合によっては売春を行っていた。

  最後に色酒家とは、ソウルの場合、零細な飲食店や酒幕(大衆酒場)で接客にあたる女性を指すことが多かった。客に酒を飲ませ、ときには売春を行うこともあるが、芸能の心得などはなく、おもに底辺社会の男性を相手とした。「蝎甫」も色酒家と同様の意味で使用される場合があることは、前述した通りである。

  開国後の朝鮮社会における急激な経済システムの変動は、貧富の差を拡大するとともに、朝鮮王朝後期以来の身分制解体の傾向を促進し、甲午改革での身分制廃止は社会諸階層間のいっそうの流動化をもたらした。身分的な拘束は解かれたものの経済的に困窮する女性が、この時期大量に出現したと見られる。また甲午改革では人身売買禁止も掲げられてはいたが、後述するように売春目的の女性の誘拐・売買は、むしろこの時期以降、日本の侵略・植民地政策が進展する中で拡大していく。論者により「妓生」「蝎甫」などの定義が混乱しているのは、こうした朝鮮社会の流動化が各種接客女性の「接客」の内容に急激な変化をもたらしたことの反映にほかならないと言えよう。
(後略)

マリサ
京都大学大学院文学研究科文学部による「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程」
という論文によるとサービスの形態や行う場所によって名称に違いがあるようで、妓生とは「自宅に客を招いて酒食を提供し、歌舞を演じる(技能を持った)接客女性」の事で、そのサービスの一環として性的な行為も含まれたとしているぜ。


レイム
そして「蝎甫(カルボ)」は「色酒家」とも呼ばれることがあり「ソウルの場合、零細な飲食店や酒幕(大衆酒場)で接客にあたる女性を指すことが多かった。客に酒を飲ませ、ときには売春を行うこともあるが、芸能の心得などはなく、おもに底辺社会の男性を相手とした」と書かれているわ。


マリサ
要するに、妓生学校とは「自宅に客を招いて酒食を提供し、歌舞を演じる(技能を持った)接客女性」を育成する民間機関※という事になるが、ここで問題となるのは「妓生は芸者と同じで性的サービスをするのは蝎甫(カルボ)や色酒家であって、違いがある」という論法が使われる事だぜ。


※元々妓生(学校含む)制度は李朝の政府直轄の公的機関であったが、日清戦争後に日本の介入(甲午改革)による近代化の過程で身分制度自体が廃止され、そのまま民間機関へと移行していった。


レイム
実際には、業務形態の違いであってどちらも性的なサービスを正式な業務形態としていた事に違いはないのだけどね。


マリサ
ただ色々と調べた限りでは、妓生と蝎甫という呼称は朝鮮でも混同されていたようであるって事と、混同の原因として業務形態に関してもそこまで厳密にわかれていたわけではなかったようだって事だぜ。
そして次に後半部分を読むと

植民地朝鮮における公娼制度の確立過程」
京都大学大学院文学研究科・文学部・現代文化学系「二十世紀」編『二十世紀研究』第5号、2004年12月
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/seoul/index.html
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/seoul/seoul1.html#chap1

(前略)
2. 朝鮮人接客業に対する管理のはじまり

  日露戦争(1904~05年)の勝利により日本が朝鮮を保護国として事実上支配した時期(1905~10年)、日本人売春業は量的にさらに膨張した11)。この時期、日本の官憲当局(領事館業務は統監府のもとに新設された理事庁が継承)による日本人売春業の管理方針は、①「第二種」「乙種」「特別」などの語を「料理店」「芸妓」に冠して事実上の「貸座敷」「娼妓」として管理する、②各地に売春業の営業地域=遊廓を設置し集娼政策を実施する、というものであった12)。①は欧米人に対する「国家の体面」維持のため、売春業を意味する「貸座敷」「娼妓」などの使用を避けるための措置であった。また②の集娼政策は日本国家の性管理システムにとって不可欠な構成要素の一つと言え、1900年10月に釜山で「特別料理店」の営業地域が指定されたのを皮切りとして各地に広まっていった13)。日本内地とコンセプトを同じくする公娼制度が、日本人居住地域で実施されはじめたのである。

  1904年6月、ソウルの居留民団はソウル城内南東隅の双林洞に7000坪の地所を買収し、この地を「第二種料理店」(=事実上の貸座敷)の営業地域と定めた。のちの新町遊廓のはじまりである14)。やや遅れて1906年には、日露戦争を契機に日本軍(韓国駐箚軍)が駐屯しはじめた城外の龍山地区に桃山遊廓(のち「弥生遊廓」と改称)が開設された15)。さらに1907年ごろ京城理事庁は吉野町(現・厚岩洞)南廟前に「中の新地」遊廓を新設し、私娼を抱える小料理屋(いわゆる「曖昧屋」)を同遊廓に移転させる措置をとった16)。

  一方で保護国期には、大韓帝国政府も朝鮮人接客婦の取締りに着手していた。ただし事実上、日本の支配下におかれていた当時の状況にあっては、朝鮮人接客婦の管理方針も実際には日本側の意向を強く反映するものとなった。

  開国後の急激な経済的・社会的変動や、日本の売春業上陸の影響を受けて増加したソウルの朝鮮人接客婦に対し、大韓帝国政府は日露戦争中の1904年にまずその居住地を制限しようとした。同年4月、全国の警察事務を管掌する警務庁では、ソウルにおいて三牌などの居住を一定地域に制限する方針を明らかにし、その後、三牌の居住地域として定められた詩洞(植民地期の笠井町、現・笠井洞)へ40日以内に移転するよう命じたのである。その期限は6月10日ごろであったが、結局8~9割ほどは家屋を購入できず、移転できないままであった。警務庁の調査では、このころソウルにいた三牌は280名であり、詩洞以外では一切売春を禁じる訓令が出された。そして詩洞の三牌が居住する家屋には「賞花堂」の門牌が掲げられた(『皇城新聞』04/04/27、『大韓日報』04/06/12)。警務司(警務庁の長官)申泰休がこうした集娼政策をとったのは、ソウルでも地方でも「游女」が淫らな姿で門前に立っていることを憎み、彼女たちを1カ所に集めて一般住民と交わらないようにするためであったという17)。以後「詩洞(詩谷)」「賞花堂」は三牌の代名詞として用いられるようになっていった。

  次に警務庁では1906年、売春に関係すると見られた女性たちに対する検黴(性病検診)実施に乗りだした(この時期の警務庁はソウルのみを管轄)。最初に検黴が実施されたのは同年2月6日で、受検者139名中47名が罹病者と診断された(『帝国新聞』06/02/08)18)。3日後の2月9日には丸山重俊警務顧問が「健康診断施行手続」を制定したところから19)、この検黴実施は明らかに日本側の主導によって実施されたものと見られる。対象になったのは「妓生」と「搭仰謀利」(三牌)と報道されているが、記事内容(註18参照)やその後の経過などから見て、ここで言う「妓生」とは主に「隠君子」(二牌)を指すものと思われる。また「健康」と診断された者には「健康証」が付与された模様だが、これは姜貞淑が指摘するように「公娼制度の初期の姿」20)であり、以後、隠君子と三牌を「娼妓」として取り締まろうとする政策的意図が感じられる。局部に対する検診は非倫理的・非人間的な取扱いとして受診者に屈辱感を与え、反発した詩谷の「賞花堂」(三牌)たちはストライキを行い(『大韓毎日申報』06/02/11)、ある者はアヘンを飲んで自殺をはかるなどの手段で抗議したほか、地方出身の隠君子の中には帰郷する者も現れた21)。しかしこうした検黴強制への反発にも拘わらず、その後も毎月1回のペースで検黴は続けられていった。

  ところで興味深いのは、このとき検黴の対象となった女性たちが次のように述べている点である。

……売淫婦トシテ検梅ヲ要スルハ妓生モ亦売淫婦ナリ然ルニ妓生ハ検梅セス今後尚ホ妓生ノ検梅ヲ実行セサルニ於テハ寧ロ妓生ニ転籍セバ検梅ヲ免ルヽヲ得ント22)。

  検黴を強制された隠君子・三牌が、これを免れるための手段として「妓生」への「転籍」の可能性を口にするということは、この時点では「妓生」の範疇がいまだ流動的であったことを示唆していると言えよう。

  さて1907年7月、警務庁に代わるソウル管轄の警察機関として警視庁が設置され、翌1908年9月28日には大韓帝国最初の接客業取締法令である警視庁令第5号「妓生団束令」、同第6号「娼妓団束令」が公布されている(「団束」は取締りの意)。両者はともに全5条のごく簡単な内容で、しかも「妓生」「娼妓」以外の条文は全く同一であり、妓生・娼妓を認可営業とすること(第1条)、それぞれに組合設立を認めること(第2条)などが定められた23)。1907年8月の第3次日韓協約以降、日本人官吏が大韓帝国政府に任用されており、こうした接客業取締りの方針も日本人警察官僚の意向に沿って決定されたと見るべきだろう。警視庁が作成したと見られる「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」収録の公文書類が、ほとんどすべて日本語で記載されているのも、このことを裏付けていると言えよう。

  両「団束令」公布から3日後の10月1日にはソウル在住の妓生・娼妓が召集され、警視庁第二課長・浜島尹松が諭告をおこない、①妓生・娼妓とも夫のある者には認可しないこと、②両者ともに結婚許可年齢の満15歳に満たない者は認可しないこと、③同業組合は妓生・娼妓みずからが組織し同業者以外の者はみだりに干渉しないこと、などを告げたうえで、とくに娼妓に対しては、④検黴は「止ムヲ得サル」として婉曲に強制実施の継続を表明し、⑤自ら健康であることを証明しなければ認可しない方針を伝えた24)。10月6日には警視庁訓令甲第41号「妓生及娼妓団束令施行心得」が制定され、上記①が第3条に、②が第4条に盛り込まれたほか、⑤については「娼妓稼業届ヲ為スモノニハ警察医ノ健康証明書ヲ徴スヘシ」(第5条)と具体的に規定された25)。

  ところで10月1日の妓生・娼妓に対する諭告の中で、警察当局は「妓生」「娼妓」の定義を初めて明らかにしている。「妓生」とは「旧来官妓又ハ妓生ト呼ヒタルモノヲ総称スルモノ」、また「娼妓」とは「賞花室、蝎甫、又ハ色酒家ノ酌婦ヲ総称スルモノ」とされたのである。1906年2月の検黴開始の際に検診の対象となった隠君子(二牌)は「娼妓」から除外され、代わって「蝎甫」と「色酒家ノ酌婦」(両者はほぼ重なる)が「娼妓」に追加されたのである。

  この定義にしたがって、官憲は「娼妓」の組織化に乗り出した。1909年8月20日、賞花堂(三牌)・色酒家・蝎甫が警視庁の指示で集められ、「漢城娼妓組合」の結成総会が開かれたのである26)。酒商(色酒家の抱主)らは負担金の過重さを訴え反対したが、結局、当局に押し切られる形で組合の設立は決まった。漢城娼妓組合はソウルの「娼妓」免許をもつ大部分の女性を網羅し、詩谷(詩洞)近傍の「娼妓」(主に三牌)180余名、市内に散在する「酒商娼妓」(色酒家)140余名から構成されていた。この組合の役員には娼妓だけが就任できたが、妓夫・酒商なども相談役として組合に対する影響力をもっていたと見られる。徴収された組合費のほとんどは「治療費」として支出されているところから、娼妓組合結成の主要目的の一つは検黴費用の捻出にあったと言えよう。なお日本人警察官僚は、組合組織によって妓夫・酒商などの抱主の排除をもくろんでいたようであるが、このねらいは充分には達成できなかった。

  さて保護国期には、経済的困窮から「売春」を行う朝鮮人女性が目立って増加した模様である。「併合」翌年の1911年の新聞報道は次のように伝えている。

昨今朝鮮婦人間には社会状態の変遷につれて生活難を唱ふるに至り就中下級婦人等は切実に金銭の生活上必要なるを感じ之が結果如何なる労働にても従業する者あると同時に一方身を醜業界に投じても一家生計の方法を講ぜんとする二傾向を生するに至りし……現下の京城にては未だ十分に之等朝鮮婦人を使用すべき事業なく……(『朝鮮新聞』11/05/05)。

  しかし一方で当時、朝鮮に赴任していた日本の警察官僚は、朝鮮での女性売買の状況を次のように観察していた。

悪漢が良家の子女を略奪して売買することあれど、極めて少なき事件に属す。只妓家が妓生・蝎甫等の売春婦と為す目的を以て幼少より他人の女子を買い、之に相当の技芸を教え、自家に於て賤業に従事せしめ、或は他に転売することあり27)。

  「妓生」「蝎甫」の理解には混乱が見られるものの、この時期に女性誘拐の風習はほとんど見られなかったこと、売買された女性は単なる売春目的ではなく「相当の技芸」をもつ接客婦として育成されていたことを読み取ることができる。

  保護国期には急増する朝鮮人接客婦を管理するために、居住・営業地域の指定、検黴、免許付与、同業組合結成などの措置がとられた。これらの政策によって、大韓帝国末期のソウルでは朝鮮人を対象とする公娼制度が実施されはじめたと言ってよいだろう。しかし当局による「妓生」「娼妓」の定義は示されたものの、その境界はいまだ流動的な側面を残していた。また誘拐などの暴力的手段をも駆使しながら売春を専業とする女性を確保するという、日本で行われていたような女性売買の風習も、さほど多くは見られなかったようである。日本式の性風俗意識は徐々に朝鮮社会を浸食していたものの、性風俗営業をめぐる状況は、日本社会のそれとはいまだ大きな隔たりが存在していたのである。

マリサ
記事によると、併合時代に総督府は性病検査などを実施して妓生や蝎甫の管理を実施していて、その一環として組合制度を立ち上げさせていたようなんだぜ。
そのなかで「①妓生・娼妓とも夫のある者には認可しないこと、②両者ともに結婚許可年齢の満15歳に満たない者は認可しないこと、③同業組合は妓生・娼妓みずからが組織し同業者以外の者はみだりに干渉しないこと」という規約があってどうもこれは妓生における妓夫、蝎甫における酒商などの抱主排除という意図があったようで、この時期の妓夫や酒商というのは「ポン引き」のような役割であったようなんだぜ。


マリサ
そして最も注目すべき部分は当時の警察の記述として「悪漢が良家の子女を略奪して売買することあれど、極めて少なき事件に属す。只妓家が妓生・蝎甫等の売春婦と為す目的を以て幼少より他人の女子を買い、之に相当の技芸を教え、自家に於て賤業に従事せしめ、或は他に転売することあり」と書かれている事だぜ。


レイム
下級官吏の妓夫が女性と婚姻関係になりマネジメントするという李朝時代の慣習から考えると、戸籍上の親族関係によって成り立つ業務形態が、貧困家庭から「養子」という名目で子供を買い、妓生や蝎甫に従事させ、自身はポン引きとして活動するという仕組みに発展していったという背景が見えてくるわね。


マリサ
というより、うp主の解釈では、李朝時代から年齢が近ければ婚姻関係として、離れていれば養子として妓生制度に組み込んでいたのではないかとみているぜ。


マリサ
そしてそのうえで、前回の李玉善(イ・オクソン)証言のいくつかを思い出してほしいぜ。
証言ではいくつかで一貫した内容として、何らかの形で養女となり、食堂等で酒の接待をして)働いていたという記述があるが、これ「蝎甫」の業務形態と同じなんだぜ。


マリサ
更に金学順の証言では「キーセン(妓生)学校に通い、キーセンの養父とともに満州で仕事をしていた」というのがあるが、妓生の業務形態が「自宅に客を招いて歌舞でもてなし性的サービスも行う」という事を考えると、妓生と蝎甫のどちらも考えられるぜ。


マリサ
いずれにせよ、慰安婦の証言を当時の記録にあてはめると、「慰安婦になる前から性的サービスの業務に従事していた」という背景が見えてきて、「本人の意思に反して慰安婦にさせられた」という慰安婦の定義からは外れていくんだぜ。


レイム
朝日新聞三者委員会の検証で「「キーセン(妓生)学校のことを書かなかったことにより、事案の全体像を正確に伝えなかった可能性はある。『キーセン』イコール慰安婦ではないとする(植村氏の)主張は首肯できるが、それならば、判明した事実とともに、キーセン(妓生)学校がいかなるものであるか、そこに行く女性の人生がどのようなものであるかを描き、読者の判断に委ねるべきであった」と書かれているけど、これがどれだけ欺瞞に満ちた内容であるかがよく分かるわね。


マリサ
こういう書き方をしているって事は「全て知ったうえで『言及した』という既成事実を残しつつ問題をはぐらかした」って事だからな。

今回のまとめ
・金学順は名乗り出た第一号ではないし、証言も検証されていない
・妓生とは性的サービスを行う仕事であり、「芸者のようなもの」ではない。

マリサ
それでな、「妓生とは芸者のようなものであり性的なサービスは行っていない」という主張ってな、突き詰めていくと「証言がある」という所に行き着くんだぜ。


レイム
そうね、実際問題芸者のような形態で働いていた人もいたのかもしれないけどそれを裏付ける具体的根拠は存在しないし、証言者がそうであったかどうかは一切検証されていなくて、証言は事実という前提でそう言っているだけだしね。


マリサ
そして証言の矛盾を指摘すると「高齢だから曖昧になっているだけだ」と誤魔化すと。
これじゃ証言が背景を説明して背景が証言を説明するというただの循環論法なんだぜ。


マリサ
それでなレイム、私は「朝日新聞の検証」とかけて「小学生のバーリア」と説くぜ。


レイム
そのこころは。


マリサ
「どっちもただ言っているだけ」だぜ。


レイム
おあとがよろしいようで。


マリサ
そんなわけで今回の本編はここで終わるぜ。


レイム マリサ
ご視聴ありがとうございました。



大口
今回も長くなりすぎたのでおまけはないよ。


レイム マリサ 大口
またらいしゅ~



お知らせ。
転載について
・個人の利用であれば、一般的に「引用」とされる範囲での転載は自由にしてもらってかまいません、報告も必要ありません。
・企業・団体等が「転載」する場合は私の方へ事前連絡いただき、許可を取ってから行ってください。
イデオロギー色の強い団体等に関しては、理由の如何に関わらず「転載は原則禁止」とさせていただきます。

もしよかったらクリックをお願いします。
blog.with2.net


以下は当ブログのお勧め記事です、もしよかったらこちらもどうぞ。

韓国人が日本人から嫌われる根本的原因 - 日韓問題(初心者向け)

【韓国起源説】日本人の反論は韓国人に通じない - 日韓問題(初心者向け)

日本人と韓国人とでは「約束・契約」の概念が全く違う - 日韓問題(初心者向け)

日韓問題(初心者向け)の方針について色々 - 日韓問題(初心者向け)

【河野談話】韓国政府が自爆しました - 日韓問題(初心者向け)

フランスのJapan Expoから韓国がいなくならない原因 - 日韓問題(初心者向け)

「Japan Expoに寄生しないで独自のコリアエキスポやればいいのに」→過去にやった事があります - 日韓問題(初心者向け)

韓国人の差別意識の特徴とタイの嫌韓 - 日韓問題(初心者向け)

嫌韓の出発点、2002年日韓共催ワールドカップで何が起きたのか - 日韓問題(初心者向け)

嫌韓を「排外主義者=ネトウヨ」と考える人達に対する考察をしてみた - 日韓問題(初心者向け)

「韓国に対して謝罪すれば解決する」は大きな間違い - 日韓問題(初心者向け)

韓国視点から見たヘイトスピーチ - 日韓問題(初心者向け)

メアリー・スーとネトウヨ論 - 日韓問題(初心者向け)

日韓問題とイデオロギー論争 - 日韓問題(初心者向け)

韓国では異論が徹底的に排除される - 日韓問題(初心者向け)

日韓問題基礎知識簡易版まとめ 前編 - 日韓問題(初心者向け)

日韓問題基礎知識簡易版まとめ 後編 - 日韓問題(初心者向け)

初心者でも解る韓国対策 - 日韓問題(初心者向け)

韓国社会では「記憶の改変」が起きているわけではない? - 日韓問題(初心者向け)

【再現】2002年日韓ワールドカップ Public Viewing in 国立競技場 - 日韓問題(初心者向け)

徴用工裁判問題まとめ - 日韓問題(初心者向け)

慰安婦問題で重要な事 - 日韓問題(初心者向け)


動画版マイリスト



番外編マイリスト